「卯毛羊毛・・・」「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄 第十三条)

歎異抄 第十三条

「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」

歎異抄十三(原文には改行がありません)
十三 弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ。この条、本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざるなり。

よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。


また、あるとき「唯円房はわがいうことをば信ずるか」と、おおせのそうらいしあいだ、「さんそうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがうまじきか」と、かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状もうしてそうらいしかば、「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞がいうことをたがうまじきとはいうぞ」と。

「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。

わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを。おおせのそうらいしなり。


そのかみ邪見におちたるひとあって、悪をつくりたるものを、たすけんという願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいいて、ようように、あしざまなることのきこえそうらいしとき、御消息に、「くすりあればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされてそうろうは、かの邪執をやめんがためなり。

まったく、悪は往生のさわりたるべしとにはあらず。「持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきや」と。かかるあさましき身も、本願にあいたてまつりてこそ、げにほこられそうらえ。さればとて、身にそなえざらん悪業は、よもつくられそうらわじものを。

また、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」と。

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人はおおせそうらいしに、当時は後世者ぶりしてよからんものばかり念仏もうすべきように、あるいは道場にはりぶみをして、なむなむのことし他らんものをば、道場へいるべからず、なんどということ、ひとえに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか。

願をほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。

『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくわれがたしとおもうべき」とそうろうぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてそうらえ。

おおよそ、悪業煩悩を断じつくしてのち、本願を信ぜんのみぞ、願をほこるおもいもなくてよかるべきに、煩悩を断じなばすなわち仏になり、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。

本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄、具足せられてこそそうろうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を、本願ぼこりという、いかなる悪か、ほこらぬにてそうろうべきぞや。かえりて、こころおさなきことか。

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『歎異抄』第十二条

十二 経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といいつべし。


他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりにまよえらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといえども、聖教の本意をこころえざる条、もっとも不便のことなり。一文不通にして、経釈のゆくじもしらざらんひとの、となえやすからんための名号におわしますゆえに、易行という。学問をむねとするは、聖道門なり、難行となづくあやまって、学問して、名聞利養のおもいに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんという証文もそうろうぞかし。


当時、専修念仏のひとと、聖道門のひと、諍論をくわだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりというほどに、法敵もいできたり。謗法もおこる。これしかしながら、みずから、わが法を破謗するにあらずや。たとい諸門こぞりて、念仏はかいなきひとのためなり、その宗、あさしいやしというとも、さらにあらそわずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの。信ずればたすかるよし、うけたまわりて信じそうらえば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには、最上の法にてまします。


たとい自余の教法はすぐれたりとも、みずからがためには器量およばざれば、つとめがたし。われもひとも、生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておわしませば、御さまたげあるべからずとて、にくい気せずは、たれのひとかありて、あたをなすべきや。かつは、「諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべき」よしの証文そうろうにこそ。


故聖人のおおせには、「この法を信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏ときおかせたまいたることなれば、われはすでに信じたてまつる。またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられそうろう。しかれば往生はいよいよ一定とおもいたまうべきなり。あやまって、そしるひとのそうらわざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんとも、おぼえそうらいぬべけれ。


かくもうせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがいをあらせじと、ときおかせたまうことをもうすなり」とこそそうらいしか。いまの世には学文して、ひとのそしりをやめ、ひとえに論義問答むねとせんとかまえられそうろうにや。学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかが、なんどとあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきおもむきをも、とききかせられそうらわばこそ、学生のかいにてもそうらわめ。たまたま、なにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどといいおどさるること、法の魔障なり。仏の怨敵なり。自ら他力の信心かくるのみならず、あやまって、他をまよわさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあわれむべし、弥陀の本願にあらざることをと云々

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歎異抄十一条 「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、また名号不思議を信ずるか」

歎異抄十一条 「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、また名号不思議を信ずるか」
十一 一文不通のともがらの念仏もうすにおうて、「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、また名号不思議を信ずるか」と、いいおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいいひらかずして、ひとのこころをまどわすこと、この条、かえすがえすもこころをとどめて、おもいわくべきことなり。

誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば、まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、生死をいずべしと信じて、念仏のもうさるるも、如来の御はからいなりとおもえば、すこしもみずからのはからいまじわらざるがゆえに、本願に相応して、実報土に往生するなり。

これは誓願の不思議を、むねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもうは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり。このひとは、名号の不思議をも、また信ぜざるなり。信ぜざれども、返事懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただひとつなるべし。

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義なきをもって義とす(歎異抄第十条)

し 歎異抄 第十条、第十章
む 念仏には無義をもって義とす。

歎異抄十(原文には改行がありません)

十 「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

念仏には、私ども人間のはからいがない、ということをもって本義とするものです。それは称はかることもできず、説き尽すこともできず、考え及ぶこともできない、絶対の真実(まこと)だからです、と聖人は仰せになりました。

そもそもかの御在生のむかし、おなじこころざしにして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまわりしかども、そのひとびとにともないて念仏もうさるる老若、そのかずしらずおわしますなかに、上人のおおせにあらざる異義どもを、近来はおおくおおせられおうてそうろうよし、つたえうけたまわる。いわれなき条々の子細のこと。

そもそも親鸞聖人が、この世に生きておいでになったころ、同じ志をいだいて、関東から京都まではるばると歩みを運び、同一の信心のもとに、ただひとすじに真実の浄土へ生まれる身とさせていただいた同朋たちは、みな同じように聖人から教えのまことのおもむきを承ったのであるけれども、その人々につきしたがって念仏を申している老若のなかには、聖人の仰せとは異なる誤った了解をもとにした主張をする者も、近頃では数多くいるということを聞いている。それらの誤りを一つ一つ述べていくこととしよう。


廣瀬先生はここからを第十一条としている。
第十条は「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。の一文をもって第十条、すなわち、師訓十か条の第十条と考える。


「そもそもそもそもかの御在生のむかし」と書き出されていく文章の中に、師親鸞によって教えられた念仏の本義に対する背反の事実が現実的に示されているということだけで、第十条と別立てにしようとしているのではありません。


この一文が「いわれなき条々の子細のこと」という言葉をもっておさえられているからなのです。
つまり「いわれなき」異義続出の現実を「条々の子細のこと」と語るところには、その「いわれなき」異義を「条々の子細のこと」として、一つ一つ丹念に教誡していかねば仏弟子の責任が果たせないという編者の心情がはっきり読み取れるからです。・・・(一部抜粋)
(意訳等:『歎異抄講話3』廣瀬杲 法蔵館)


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念仏もうしそうらえども・・・(歎異抄 第九条)

き 歎異抄 第九条、第九章
ね 「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」
し 「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。・・・
し しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
く 久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり

歎異抄九(原文には改行がありません)
九 「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。
しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。
久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々

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念仏は行者のために、非行非善なり。(歎異抄 第八条)

は 歎異抄 第八条、第八章
ひ 念仏は行者のために、非行非善なり。

歎異抄八(原文には改行がありません)
八 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々

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歎異抄裏書(うらがき)

う 歎異抄裏書(うらがき)

後鳥羽院御宇、法然聖人他力本願念仏宗を興行す。于時、興福寺僧侶敵奏之上、御弟子中狼藉子細あるよし、無実風聞によりて罪科に処せらるる人数事
一 法然聖人並御弟子七人流罪、また御弟子四人死罪におこなわるるなり。聖人は土佐国番田という所へ流罪、罪名藤井元彦男云々、生年七十六歳なり。
親鸞は越後国、罪名藤井善信云々、生年三十五歳なり。

浄円房備後国、澄西禅光房伯耆国好覚房伊豆国、行空法本房佐渡国、幸西成覚房・善恵房二人、同遠流にさだまる。しかるに無動寺之善題大僧正、これを申しあずかると云々 遠流之人々已上八人なりと云々
被行死罪人々。
一番 西意善綽房
二番 性願房
三番 住蓮房
四番 安楽房
二位法印尊長之沙汰也。
親鸞改僧儀賜俗名、仍非僧非俗。然間以禿字為姓被経奏問畢。彼御申状、于今外記庁納云々
流罪已後愚禿親鸞令書給也

右斯聖教者、為当流大事聖教也。
於無宿善機、無左右不可許之者也。
釈蓮如御判

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念仏者は、無碍の一道なり。

し・な 歎異抄 第七条、第七章
む 念仏者は、無碍の一道なり。

歎異抄七(原文には改行がありません)
七 念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々

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親鸞は弟子一人(いちにん)ももたずそうろう。

ろ 歎異抄 第六条、第六章
わ わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。
て 親鸞は弟子一人(いちにん)ももたずそうろう。


歎異抄六(原文には改行がありません)
六 専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずそうろう。

そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。

つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいうこと、不可説なり。

如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。かえすがえすもあるべからざることなり。自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々

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親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず

こ 歎異抄 第五条、第五章
ふ 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。

歎異抄五(原文には改行がありません)
五 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟(ぶもきょうだい)なり。いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。

わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々

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慈悲に聖道浄土のかわりめあり

よ 歎異抄 第四条、第四章
じ 慈悲に聖道浄土のかわりめあり

歎異抄四(原文には改行がありません)
四 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。

今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈大悲心にてそうろうべきと云々

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善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。

さ 歎異抄 第三条、第三章
せ 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。

歎異抄三(原文には改行がありません)
三 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。

そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。

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親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

に 歎異抄 第二条、第二章
た ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
い いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
め 面々の御はからいなりと云々

歎異抄二(原文には改行がありません)
二 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。

そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々

◆弥陀の本願→釈尊の説教(仏説)→善導の御釈→法然のおおせ→親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか

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念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

い 歎異抄 第一条、第一章
ね 念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々

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歎異抄 第一条 意訳

い 歎異抄 第一条 意訳

いのちあるものすべてを救おうと誓う阿弥陀の願いの、はからいを越えたはたらきによって、この生涯を尽くし、真実(まこと)の世界に生まれるのであると信じて念仏申そうとおもいたつこころのおこるとき、すでにそのとき、すべてのものを摂(おさ)めとって捨てることのない光のなかを生きる身となるのです。
阿弥陀の本願には、老人と若者のへだてもなく、善人と悪人との差別もありません。ただこの願いに目覚める心、すなわち、信心ひとつが肝要であると知るべきです。それというのも罪業、罪の身の深きに苦しみ、煩いと悩みとのはてなき人生を、生きていかなければならない人びとのための悲願だからであります。
ですから、阿弥陀の本願を信ずるも身には、他のどのような善も必要ではありません。念仏よりすぐれた善はないからです。また、悪を思いわずろうて恐れる心配もないのです。本願を妨げるほどの悪も、決してないからです、と聖人は教えてくださいました。
【歎異抄講話1 広瀬 杲 法蔵館】

◆歎異抄第一条、丸暗記、つらーっと最初から最後まで言えるようになったら、歎異抄はわかるんだって♪
一条についてこの本では、昭和35年に大谷大学の教壇に初めて立つことになった広瀬先生が、曾我量深先生に「『歎異抄』を勉強するについてはどのように勉強したらいいのでしょうか。『歎異抄』がいちばんよくわかるにはどのような勉強をしたらいいのでしょうか。『歎異抄』を勉強するのにいい参考書があったらお教え願えないでしょうか」と、聞かれた時のことが書かれています。

「『歎異抄』をわかろうと思うなら第一条から第十条まで暗誦ができるようにするのがよろしい」ということでした。「それがどうしても時々間違うという心配があるならば第一条だけは、食事をしているときにも、電車のつり革にぶら下がっているときにでも、便所の中にいるときにでも、弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、とふっとでてきたら、そのまますーっと一気に、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々と最後まで念頭に出てくるようになったら『歎異抄』は必ずわかります。」
これが曾我先生にお会いしたときに、最初に教えていただいた『歎異抄』についての教えでありました。


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歎異抄 序文(たんにしょうじょぶん)

し 歎異抄 序文(じょぶん)

竊回愚案粗勘古今、ひそかにぐあんをめぐらしてほぼここんをかんがうるに
歎異先師口伝之真信、思有後学相続之疑惑、せんしのくでんのしんしんにことなることをなげき、こうがくそうぞくのぎわくあることをおもうに、
幸不依有縁知識者、争得入易行一門哉。
さいわいにうえんのちしきによらずば、いかでかいぎょうのいちもんにいることをえんや。

全以自見之覚悟、莫乱他力之宗旨。まったくじけんのかくごをもって、たりきのしゅうしをみだすことなかれ。
仍、故親鸞聖人御物語之趣、所留耳底、聊注之。
よってこしょうにんのおんものがたりのおもむき、みみのそこにとどまるところを、ここにしるす。
偏為散同心行者之不審也云々ひとえにどうしんのぎょうじゃのふしんをさんぜんがためなりとうんぬん

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歎異抄序文 意訳

し 歎異抄序文 意訳
親鸞聖人のご在世の頃と、亡くなられた今日とを、愚かな私なりに思いくらべてみるのに、嘆かわしいことであるが、師匠親鸞聖人が直接教えてくださった真実の信心が誤られており、このままでは、後に続いて念仏の道を伝えていこうと志す人びとのうえにも、疑いや惑いが生ずるのではなかろうか、と案じられてならない。
もし、私たちが縁あってよき師に会うということがないならば、どうして、万人平等の救いの門に入ることができようか。
だから必ず必ず身勝手な考えをもって、ひとえに他力によって生きることを旨(むね)とする趣旨(いわれ)を混乱さすようなことをしてはならない。
それゆえに私は、亡き親鸞聖人がお話くださったみ教えで忘れようにも忘れることのできないお言葉を、わずかながら書き記すのである。これはただただ同じ志を抱く同朋たちが、不審に思っていることを晴らしたいと願う気持ちからのことである。
【歎異抄講話1 広瀬 杲 法蔵館】

◆歎異抄の本はいろいろありますが、広瀬 杲(たかし)先生の意訳に惚れました。イチオシです。多少高価ですが、一生もんになります。o(^▽^)o 『歎異抄』序文で泣きそうになります。原文では、「耳の底に留まるところいささかこれをしるす、」という一文があります。自分のもとをもう去ってしまった人の言葉に突き動かされること、ありますね、愛というよりもっと深い、つながりを生きているのかな。うまくまとまりませんが、言葉は「象徴」なんですよね、だから言葉に背中を押されたりするんでしょう。

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