「一新」構想中

ブログ削除やめようかなと思っています。これまでのものは移動したから消すとしても、名前等変えて一新してトラックバックをうけつけない、シンプルな辞書のようなものを作っていこうかなという構想中。やっぱりここの壁紙が好きで。

風邪なおしてからやね。

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ブログ削除

他にもいくつかしているので、コメントがほとんどないこのブログを今月中に削除する予定です。

壁紙がかわいくてちょっと好きでしたが、本当に書きたいことを書いていきたい。

移動先のアドレスを書いてやめます。http://d.hatena.ne.jp/nikoju/

今日はだいぶ作業が進みました。削除は今週中になるかもしれません。

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保育園まで歩いて登園

娘の保育園から自宅まで、2kmです。

今朝はママお土産(高価なおいしい)の「敦賀のかにずし」を食べよう!といったら、「イヤー、いらないっ、食べたくない、カニだけ食べる」などというので、「食うなっっ!やらんわっ」と怒り「ご飯は勝手に盛りなさい、お弁当のご飯も勝手に持っていきなさい、もうあんたの面倒は見ませんっ!」と叱り付け、食後に「一人で歩いて保育園にいきなさいっ」と言った。

月忌参りがあるので、出かける準備をした。母がなぜいないの?と聴くので、ことの次第を話すと、心配して車で様子を見に行ったが、村に彼女の姿はなかった。私はいつものように、部屋で泣いているか、反省したふりして泣き真似してるか、そうでなければ車に乗っていじけていると思っていた。

30分後、保育園から「一人で歩いて登園しました!!」という電話がかかる。「そんな早く、行きましたか!」とママびっくり。届け物があったので、保育園へ行く。S先生が娘と私の仲裁をしてくれて、お互いに「ごめんなさい」の握手をした。

交通事故など何事もなくてよかった!同時に、予想以上にたくましくなったものだと感心しています。保育園で体を鍛えてもらっているからだとうれしく思います。しかし、今後二度とこのようなことは起こしません。すみませんでした。(汗)

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旧友。

あの子にはじめて会ったのは、金沢別院の「花まつり(お釈迦様の誕生を祝う)」で、花まつりスタッフだった私が退屈そうにしていたとき、「障害者自立センター」の屋台のお手伝いをしていた大学生のあべちゃんが、声を掛けてくれたのがきっかけ。

仲良しの友人としていろんなところへ行った。家族みたいにしていたときもあって、お手伝いをいろいろしてもらった。音信不通のときもたびたびあった。センスのいいプレゼントをたくさんもらった。いっぱい想い出があるから思い出すことも多い。

あべちゃんが久しぶりに私と母に会いに来てくれた。以前来てくれたときは、インドネシアで新聞記者をするということだったが、帰ってきていて、これから長崎で新聞記者をするのだという。彼らしい。

お互いに「変わらないね!」と笑った。六花亭のイチゴチョコとあべ弘士さんのどうぶつポストカードをいただいた。そしてケーキを運ぶお手伝いをしてもらった。会って一時間しゃべりまくって懐かしい時間が過ぎた。

またおいで。

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プレゼントに埋もれそう

娘の誕生会をした。ケーキは「プリキュア5のキャラデコケーキ」(とってもかわいくて大満足)、寿司桶さびぬきも用意、肉屋のとり足・肉コロッケ、それから大好きなイチゴやきゅうりと生ハムのサラダなどオードブル皿に盛り付けて食べた。

一人っ子の彼女は、おばあちゃんから、ママから、パパから、お兄ちゃんから、叔母さんからとたくさんのプレゼントに埋もれそうになっていたが、それらを全部喜んで全ての包装を真面目に開いた。一番うれしかったのはなんだったのかなぁ、パパが買った「お買い物ごっこおもちゃ」かなぁ。ピカチュウのシューズもうれしそうだった。もちろんメゾピアノのかわいいジャンパーと黒のパンツも。「こんなに与えられて大丈夫?」と心配になりました。

昨日は私も「エミリオ・プッチ」のスカーフをいただきました。バックのアクセサリーにもなる縦長のやつです。明日は久しぶりのお休みだから、スカーフを首に巻いて、おでかけしようかな♪

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名聞(みょうもん)

しかし・・・私のブログはコメントが少ないなぁ。改良が必要なのか、まあそんなものなのか、あんまり困らないけれど、ちょっと寂しい時もある。この寂しさは先輩たちもずっと抱えてきたのだろうけれど。

人の評価が気になることを「名利心(みょうりしん)」の一つの「名聞(みょうもん)」という。得度するとき、ようするに僧侶になるときに、剃髪する、それは「みつのもとどり」といわれるこの名利心「勝他・利養・名聞」を落とす、落飾するのである。と竹中先生に聞いた。

得度するとき女性は剃髪しなくてよかった。だから私は一度も落飾したことがない。あいかわらず「勝他・利養・名聞」の日々である。

明日はそんな話をしようかな、今日からまた三日間永代経法話。ちょっと紹介します。

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今日はノリノリだった。

今日は老人センターへお話に行ってきた。一時半からだと勘違いしていて、一時からだと気付いたのは15分前で、あわてて向ったら輪袈裟を忘れて、取りに帰って五分遅刻した。申し訳ない。

連日お話の機会をいただいて、鍛えられているのか、今日はノリノリだった。「おじいちゃんのファンです。」「おじいちゃんはすごく人気があったよ」「あんた若いのに上手や!」と褒められ、上機嫌で帰って来た。

夕食はハヤシライスを作る。

一息つけたので、先日永代祠堂経法話五日間(お初夜を省いた)のダイジェスト版をブログに貼ってみた。毎日たくさんの方々に参っていただいて、優しい顔で応援してもらい、行くのが楽しみだった。昨年もそうだったけど、満座は別れがさみしくさえあった。あんまりノリノリだと後でしっぺ返しがくるかな。

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売れっ子です?

先ほど「六道会・竹中智秀先生追悼法会」の司会を依頼された。五月八日午後三時から金沢真宗会館で行われます。何で私が司会?でも○さんに頼まれたら即了解。

昨日親友の結婚式のスピーチを頼まれた。結婚式のスピーチは大好きだから、即了解。

今日は永代経法話四日目、初夜もある。

明日は娘のお弁当の日、「サンドイッチお弁当」の準備を済ませた。永代経法話満座の後、七日参りへ行く。

あさっては老人センターでお話。

次の日は四十九日法要。

なんだか忙しいなぁ、半ひきこもりのはずなのに。やらなければいけないことや、大切な約束を忘れそう。

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納豆と食パン「超熟」

なんだか忙しくてしっかり食事を摂っている時間がない。そこで、三日とあけずに食べるものがある。
1.「納豆」
ブームが去って売り場に並ぶようになってからほっとしている。納豆大好きなので水戸のものでも、おかめ納豆でも、小粒でも喜んでいただいているが、石川県民である私のBEST OF 納豆は「金城納豆」、豆が大きくてとても柔らかい。定価で買うと一パック85円らしい。但し、プラント3と共同開発のものは28円。

本来なら、酢としょうゆをかけて食べるのだが、そんな暇も惜しんで混ぜもせずスプーンでむさむさ食べることが多くなった。給食で食べた「もなかに入った半冷凍の納豆」が懐かしい。どこに売っているのだろう。
2.食パン「超熟」
食パンが好き。今パスコの食パン「超熟」には「2点」のシールがついていて、このシール30点で「リサとガスパールのお買い物バック」がもらえるキャンペーンをしている。かわいい!欲しい!みんなっ食パン食べよう!バターロールでもいいけれどっ!ということで、このところパンは切れたことがない。本日ようやく30点たまり、「リサとガスパールのお買い物バック」をいただいた。うれしいな。

娘が「私も欲しいなー、ママだけいーなー」と言ったので、「これは、ママのだよ、かしてあげるからね。」というと、素直に「うんっ!かしてね。」といった。これまでだったら、「やだー、私も欲しいー(泣)」と暴れることが多かったのに、成長したのねぇぇ、と誇らしく思いました。

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2007年 真宗本廟(東本願寺)春の法要のご案内

2007年 真宗本廟(東本願寺)春の法要

講演日程など
4月1日(日) 親鸞聖人御誕生会兼親鸞聖人御誕生会慶讃音楽法要
親鸞聖人御誕生会を迎えて  大谷大学名誉教授 福島光哉
4月2日(月) 全戦没者追弔法会
教法としての非戦  九州大谷短期大学長 古田和弘
4月3日(火)・4日(水) 相続講員物故者追弔会兼帰敬式受式物故者追弔会兼宣如上人三百五十回忌法要

御影堂修復工事のため、期間中の法要・儀式は阿弥陀堂にて執り行なわれます。

◆昨年は「春の法要奉仕団」を担当しました。慌しい日程でしたが、一日目に「生」二日目に「死」という、そういえば一環して「生死」という問題があることを教えていただいた。

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秋安居(講師池田勇諦氏)のお知らせ

金沢教区(石川県) 秋安居(しゅうあんご)(2006年度)

期間 2007313日~14

場所 金沢大谷会館(教務所・金沢駅徒歩5)2F広間

講師 池田勇諦(2006年本山安居本講講者)

議題 真実證の回向成就 ―『顕浄土真実證文類』述要―

日程

313

15:30 開講式

15:45 講義1

17:15 夕食休憩

18:15 講義2 講義後質疑応答(15)

20:00 初日終了

314

15:30講義後質疑応答(15)

17:15 閉講式

     服装 間衣・輪袈裟(平服の上可)

15日間30時間にわたり行われる本山での安居と異なり、この秋安居は2日間(4時間30)の短い期間で行われます。従いまして、学習の効果を高めるため、事前にテキスト(下記参照)をよく読んでご参加くださるようお願いいたします。

講本 『真実證の回向成就』 価格2000円程度 ※金沢教務所にございます

     秋安居(しゅうあんご)
安居(あんご)は夏安居とか雨安居といって、釈尊が、雨が降って生き物たちがうろうろする時期に殺生しないように一箇所に留まってお話されたということからきていると教えてもらったことがあります、本来「秋安居」なんていうのはおかしいのかもしれないのですが、本山(大谷大学)でやる安居後、地方を回る、これがどうも秋安居らしい。

     2006年度の講師が池田勇諦先生、31.2日富山での講義を聴聞された感想を書かれていますので紹介します。 「こころおきらく日記」法然と親鸞その2

   テキストが欲しいけれど入手方法がわからない、受講したいけどわからないことがある方はコメントを下さい。

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帰敬式の偈文(ききょうしきのげもん)

帰敬式とは仏弟子になる儀式で、法名をいただきます。

『葬式中陰勤行集』(発行法蔵館 東本願寺式務部等校閲)は必需品だと思う。葬儀執行についてのほとんどすべてが書かれている。

はじめ(二頁)に書かれているのが、帰敬式の偈文(ききょうしきのげもん)

「流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者」

三界の中を流転し 恩愛を断つことあたわず(断つことがない)

恩を棄て無為に入り 真実を報恩する ()

真宗聖典のどこに書いてあるのか、どんな意味なのか知りません。

亡くなった方が法名を持っていない場合は、葬儀の前に帰敬式をします。お棺に上記帰敬式の偈文をつぶやいて、帰敬式のように桧扇(導師がもっている桧製の扇)を動かします。正式には帰敬式専用のものもあります。本山などで行うときは剃刀(のようなもの)で剃髪のような儀式をしているように見えるので、これと同じ動作をお棺にむかってやるのが葬儀の直前帰敬式なのでしょうが、なんだか不自然です。

仏弟子になるには剃髪のような儀式が必要なのでしょうか。次回は剃髪を必要とする得度について書く予定です。

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こどもちゃれんじに入会しました

こどもちゃれんじ「すてっぷ」(Benesse)に入会しました。保育園の年長さん一ヶ月前から「ひらがな読み・書き」「かず」「とけい」を基礎からじっくりしっかりして入学準備をスタートさせるらしい。私は飽き性ですから、続けられそうにないのですが、つれあいが「どうしても一緒にやりたい!」というので、入会することになりました。一年にいろんな教材やDVD、親向けの情報誌が届いて、20000円(一括)くらいです。親バカには痛くもかゆくもないのか?

娘が小さいときはネットオークションでこどもちゃれんじ「ぷち」という小さい子向けの教材ビデオやおもちゃを入手したものでした。当時もビデオは大変喜んでみていましたが、入会するとは思ってもいませんでした。

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「人間といういのちの相(すがた)」

宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要(2011)

テーマ 今、いのちがあなたを生きている

私たちは人間として当たり前のように生きています。しかし、その与えられていのちをどのように生きているのでしょうか。人間としてのいのちの営みはさまざまな相をとって社会に映し出されています。さまざまな人をとおして、人間そのものを考え、御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」を学ぶ手がかりにしていきたいと思います。

真宗大谷派では月一回『同朋新聞』を発行している。購読料は(送料共)年間1000円【発行所真宗大谷派宗務所TEL075-371-9181】この同朋新聞1面から3面では、宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要(2011)のテーマ「今、いのちがあなたを生きている」について「人間いういのちの相(すがた)」という視点で問題提起されている。2007年三月号はアレン・ネルソンさんの紹介。戦争を知らないことのすばらしさ、ベトナム戦争の兵士だったころの経験と凄まじい戦争の後遺症、少女の涙が心を溶かしたということが書かれている。立ち直って立ち上がったネルソンさんは「私のようなものを二度と生み出さないために」講演や運動をされている。

8面では講演を聞いた北陸大谷高校生の感想文が紹介されている。率直な言葉になぜか涙ぐんだ。次号ではネルソンさんのインタビューが掲載されるので、楽しみにしている。

『同朋新聞』三月号より

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僧侶メモ葬儀編

僧侶控え室でいろいろ教えていただくことがありました。

お棺に掛けるのは「七條袈裟」だと思っていたが、「棺掛かんかけ」というものだった。自坊にはないので、これからも「七條袈裟」を掛ける。

金沢の方では、通夜に呼ばれなくても、「お弔い(おとむらい)」ということで、お参りすることがある。それで私も行ってみたが、違和感はないようだった。

津幡の方では、通夜説法をしないで、葬式の後、一週間在所の人を集めお話を聞く「御座(おざ)」(あるいは「よとぎ」)とよばれる場を開く、最近は三日くらいになったそうだけれども、たくさんの人が集まるということ。すごい!

火葬後、僧侶の最初の仕事は、骨壷に名前を書くことなんだそうだ。それからこの骨壷に骨が収められる。これまでお墓に納めるときに書いていた。

初七日は通常葬式の日にするので、初七日にあたる日は七日参りへいかなくてもよい。

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深夜の愚痴

寒いっ、と帰宅した午前三時半、枕経のために一時半過ぎから出かけていた。
外は凍っているし、亡くなった方の家は暖房器具が、ほとんどない。

私は間違っている。

亡くなった方の家に以前お葬式があったことを覚えている、「四十九日まで全部で二万円いただいた」と前住職がとまどっていた。お布施だから、こちらから、「現在は葬儀の時に十万円いただくことが多いです。」とはいえない。しかし、ガイモンたたきの僧には(こちらからお願いするので)二万五千円払っていただいていることが多い。

僧侶は通夜に一人、葬儀に導師とガイモンたたきの僧と二人だが、
先ず、この僧へのお布施を払っていただけるのであろうか。

こちらは二万円でもいいけれども、それなら一週間毎日お参りすることと、七日ごとのお参りは勘弁して欲しい。

私は間違っているのだけれど、率直に今夜は愚痴を並べました。おやすみなさい。

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春間近の吹雪の日

四時、帰宅する。おじいちゃんがバイクに乗って出かけている。愛車は白いピザ屋三輪。心配しつつも、こっとり休憩、七時に夕食の予定。夕食はチキンとペンネのグラタン、ほうれん草のソテー、ゆで卵など、六時より作り始めたが、予想より時間がかかってしまった。

いつもならこの時間は「まだらボケ」(であろう)のじいちゃんが、部屋と本堂を夕事勤行(ゆうじごんぎょう・夕方のお参り)のために三往復くらいするのに、おかしいな、寝ているのだろう、と思っていた。

七時半、ようやく料理をおじいちゃんの部屋へ運ぶ、「いない!凍死しているかも!」と叫び、携帯を持って車に乗り込む、田んぼや川を覗いて、参りに行きそうな家を一軒一軒回った。間もなくバイクを発見した、一月末に亡くなった方のある家にいた。おじいちゃんはランダムにこのお参りに行こうとする。

私の地域では、命を終えた日を含めて一週間毎日お内仏(おないぶつ・仏壇)とは別に設けられた中陰壇でお勤めし、その後一週間ごとお参りする、四十九日にあたる日に親戚を集め法要をする。

じいちゃんの吹雪く寒い日も「お参りにいかなくてはならない!」という情熱のようなものは尊敬するが、ランダムに行くので相手の方が迷惑なのは言うまでもない。今日も平謝りする。ありがたいことにあからさまに迷惑顔をされる方はいない。先ほども「あんたも大変やね」と声をかけていただいた。「いいえ、皆さんのお陰です、いつもありがとうございます」と、じいちゃんを連れ帰る。

バイクのキーは没収。自分勝手だが「凍死」しなくてよかったぁ。

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自死自殺について⑤死者と共に

あるお坊さんが言いました。

子どもの死は親の死よりつらいという、かわいそうだというのは第三者、かわいそうだと泣いてはいけない、泣いたら嘘になる、人の死はめでたいこととして送っていく、生きるという仕事を終えた、どんな死に方でも。

世間の中で考えると、若くしてなくなったいのち、90歳で亡くなったいのち。長さではない、生まれてきた、生きた、死んだ、人生の中では一緒、

死者と共に。

死を縁として出会っていくことの多い僧侶である私は「死者と共に」ということを忘れていた。

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自死・自殺について④生きることの素人

あるお坊さんが言いました。

世間を超えるものが世間にあるわけが無い、医療で人間を救うわけが無い、世間を人を殺した世間を見る。精神科医は何を治す、心、人を治すことはできない。人を診る事はできるが人、世間として見ていない。専門家が溢れていることが問題。

いのちを懸けて問い続ける以外に無い、いのちを懸けて問い続ける、いのちに向かって。まさに生きることの「素人しろうと」として立ち向かったのが僧侶。

仏教は決して専門化しない、専門化できない。一人一人立ち返ったとき全ての人に通じる。

努力、能力でなく、一人の人間でただの人間、専門家でない。

方法を持たない。出世間、世間ではない。世間をいかにあきらかに。

僧侶である僕はお尻をおもいきりひっぱたかれたようです。

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自死・自殺について③少年の絶望

あるお坊さんが言いました。

「死にたい」というのは小4、10歳くらいから、子どもの中に自分を殺してしまわなければならない、という感情がおこる。学校に行くようになってから、死にたいと思い始める。いじめにあうということがあるが、いじめが無くても、ある。

仏教が教える「穢土えど」は、人間が生きること(自体)が困難であると教える。生まれたところが穢土である。生きているところでない浄土。穢土とは何か、知恵を持つということ、仲間を持つこと。仲間に他ならない、家族も仲間、子どものときは家族、それがある程度歳をとると仲間。教育をとおさなくても知恵を持ってくると現れ、そこに世間が現れる。仲間によって現れる世間、人間関係によって作られていく。世間に生きるか世間から出るか、出るということは死。世間に殺されていく、死ぬ人も世間にどっぷりつかっている。社会だけの問題ではない。

生きとる、いいこと無い。世間の中でいいことは無い。求めること自体が難しい。ある少年が「いいこと、楽しいことが無い、辛いことばかり、ずっと辛い」といった。早く気付いてよかったと私は思う。

「世間の中に目的が見つからない、仲間や友達に裏切られ、生きとって何の意味があるのだろう」

「いいことないかもしれん、そうやな。

生きてみんとわからん。」

親鸞聖人90年生きて楽しかったか、楽しくは無い。楽しいまま過ごしたかったらわざわざ(知っている人や支えてくれる人がほとんどいない)京都に来ないはず。親鸞はなさねばならないものを人生の中に見出した。楽しいとか面白いでなく、なさねばならないことを見出した。

生きていても辛いことばかりいいことないかもしれん、そうやな。

生きてみんとわからん。

気が抜けたようだけど実は真剣な言葉だと思う、真剣白刃。

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自死・自殺について②自殺の罪

あるお坊さんが言いました。

自ら殺す、「自殺」も殺人、自殺された人に非が無くても、人を殺す、殺すことは罪である。浄土真宗は決して自殺は悪いとは言わない、善導の言葉を聞いた人が、早く(死んで)浄土にいきたい、ということがあった。「死」悪いといわない。浄土教の中で言っているのではなく、殺生というところで罪である。

死んで自分自身を守るために自分のいのちを絶つ、いのちを絶って守るものは何か、それが自殺の本質ではないか。

憲法を変えてこれから戦争をしようという動きが感じられる。それでは生きれないと死ぬ人もいる。そういうことは報道されないが、死をもって伝えたいものがそこにあるのではないか。

自死自殺をすすめているわけではない、自死遺族の気持ちになって言っているのだと思う。

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自死・自殺について①

あるお坊さんが言いました。

自死と呼ぶか、自殺と呼ぶか。うつ、社会的に追い込まれてなど、それぞれに死に至る経過があり、一般化できない。

いのちあるものの死は必然。残された家族どう失っていく。

亡くなった人をどうとらえるかというより、無くなった後にどのような関係を持つか、対応というよりも、悲しむということでしか対話なされない。

ある、子どもを亡くした親は「悲しみをのりこえるのが私たちのつとめ」というが、そうでもない。一周忌、三回忌、七回忌、十回忌、二十五回忌、五十回忌、宗祖親鸞聖人にとっては七五〇回御遠忌。悲しみは時間と共に増すもの。死者と残されたものがであい続けるか、亡くなった人を縁として法要を続けてまいったということに意味がある。

仏教、真宗は死者と共に生きる道が伝えられてきた。葬儀、亡くなった人の追悼・追弔。亡くなった人を縁にして法要を重ねながら、悲しみを乗り越えるのではなくて、死者との時間をどれだけ共有できるか。

死とは何か、人間としてどのように死と向かい続けてきたか、自死という言葉によって自殺ということではなく、一人の人が死という亡くなった事実に向かい合う、「殺」がおどろおどろしいから言い換えただけか。

亡くなった人とどうであっていくか、これが「亡くなった人をどう失っていく」ということなのだと思う。法要ってなんのためにねんごろにあるのだ?と思うことがあった。亡くなった人を縁として死者との時間を共有してきたのであった。そうだった。

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思いに先立つもの

あるお坊さんが言いました。

私たちはこうして聞いてはいるけれども何が聞きたいのか、逆に言うと聞かねばならないものがある。今日まで聞いてきたけれどももっと深い言葉が聞きたいということがあると思うんです。そういう自分たちの思いに先立つ何か宗教心というか、そんなものを一緒に考えていくことが出来ないかなと思っています。

私も、さっき言いましたが、答えをつかんでそれでもって一生涯やっていこうとするものが欲しいんですねぇ。これ一本でいけるぞと。何が来てもこいつで、あの時わかった喜びで乗り切っていこうと思っているんですよ。

ところがね、そうはいかないんですよね。その時わかったことでは終えられない、それは迷いが深いからね。人間は苦悩から去ることが出来ません。だけどその苦悩っていうことが、また新たなるいよいよ深い言葉を聞いていくことになるわけですけれどもね。だからどこまでも命のある限り聞いていきたいものがあるということでしょう。

思えば問題が深刻真剣なときは、「あの時わかった喜びで乗り切れた」ことは、ない。それを迷いの深さという、生きることは迷いが深い。しみるなぁ、とのんきな僕は思った。

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そのときはっきりした

あるお坊さんが言いました。 和田稠先生の(話されたことの)テープ起こしを読んだんです。とても驚きました。これはこの先生の話を一度きかせていただかんならんと、思いました。秋に報恩講に初めて和田先生のお寺へ行ったんです。先生のお話される姿、何をお話されているかは難しくてなんもわからなんだですけど、ああ何かとても大切なことをおっしゃっているんだ。これはどうしても聞かんならんと思ってね、そして帰ってきたんです。その帰ってくる途中にひとつ真宗で一生聞いていかねばならんというご縁をいただいた。 それは何かというと、それまでは、学んでいって助かる、何とか助かるということを目指しておったんです。これで良しと命終えていけるような、そういう心境が開けることをそれだけをひとつ願って修行もし、勉強してきた。専修学院(京都にある、真宗大谷派の学校)で学んでいるときも、念仏するのも、してみるんだけれども空しくて仕方がなかった。念仏してもね、しておるその口先からもう空しいんです。もっと言うとね、無理にするもんですから、念仏せにゃならんと思ってね。念仏がでるようにならなければと思って無理して言うもんですから。もっと言うと嘘ついているような気持ちだったんです。 皆さんはどうですか、ワクワクしますか?何か、お前は本当に如来を信じているのか?その念仏はいったい何のつもりや?と。そういうことで自分がこれで良しといえる心境を開きたいとずーっと思っておったんです。ところがその先生のところから帰る途中の電車の中で、やはりひとつ何か、からだを突き抜けるような思いでね、「そらごとたわごと」という言葉が響いていたんですね。そしたらね、ひとつだけはっきりしたんですよ、そのときね。間違いのないこと、真宗においてひとつだけはっきりしたことが。それが一生真宗を聞いていこうと今思う。明日のことはわかりません。今度キリスト教になるかもわかりませんがね。 生涯聞いていかねばならない本当に大切なはっきりしたこと、間違いのないことに気付かせていただいた。それはなんだと言ったら「なんぼ聞いても分かっても人間は迷って命終えるものなのだ」こんなこと聞いたら嫌になるでしょ(微笑)、心配せんでも悟りが開けたりしないのです。迷ったまま命終えなければならない存在なんです。しかも迷ったままということは中途半端に命終えなければならないということです。「中夭ちゅうよう」と言いますでしょ。これで良し、もうやるべき事は全部終わった、ということなしに(ということがなく)。どこまで生きても何年生きても生ききれないようないのちをいただいておる。そういうことが一つはっきりしたんですね。 僕はこれで泣きました。

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