親鸞教室案内 3月

提言 佐野明弘師

恒に未だ火宅を勉れず、顛倒墜堕するがゆえに。おのおの用功は至りて重く、獲る報は偽なり
(化身土巻 P338)

「真は仮に対し偽に対する。実は虚に対する。我が果報が仮、偽、虚でしかないのは何故か。」


うぉぉぉ、ぐさぁぁぁ。
・・・案内に気付いたとき既にかなり前に終わってました。

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四月二十一日京都にて(「日本の心」小泉八雲・講談社学術文庫)


資料

四月二十一日京都にて

 日本全国の宗教的建築の中でも最も壮大な例といえる二つの建物が最近完成した。これで寺の町京都には、古都一千年の歴史を振り返っても恐らく右に出るもののない建造物が二つ新たに加わったのである。その一つは政府が贈ったもの、もう一つは庶民の力によるものである。

 政府が造営したのは大極殿といい、京都を都に定めた第五十一代(ママ)桓武天皇の大祭りを記念して建てられた。(中略)

 一方、庶民が京都の都に贈ったのは、さらに壮大な建物、すなわち真宗の荘厳な寺である東本願寺である。完成までに十七年の歳月と八百万ドルの費用を費やしたと述べれば、西洋の読者にもその威容がいくらか想像できるのではなかろうか。単に面積のみを比較するなら、これほど費用のかからない日本の建物にももっと広いものがある。だが、日本の寺院建築に通じた人であれば、高さ百二十七フィート、奥行き百九十二フィート、間口二百フィート以上もある寺を建てるのがどんなに難しいか、容易に理解できる。

(中略)

落慶式を見るために十万人を越す農民が集まった。彼らが大勢で広大な中庭に敷き詰められた筵(むしろ)に座って待っているのを私は午後三時頃に見たが、そこはまるで人の海であった。しかも、式の始まる午後七時まで、この大群衆は影一つない日なたで飲食物も口にせずにひたすら待つのである。庭の一角に見慣れぬ白い帽子と白い服をつけた二十人ほどの若い女性の一団が見えたので、あの人達は、と私は訊ねてみた。するとそばにいたひとが教えてくれた。「これだけたくさんの人が何時間もここで待つわけですから中には病人も出るでしょう。それで、具合の悪くなった人を介抱するために看護婦がああして待機しているのです。担架もそれを運ぶ人手の用意もありますし、お医者さんも大勢控えておられますよ」

 人々の信仰心と忍耐力は大したものだと私は感服した。もっとも農民たちがこの立派な寺に愛着を感じるのも当然で、これは直接的にも間接的にも彼らの力で建てられた建物である。建設のための実際の労働の少なからぬ部分が無償の奉仕によって行われたし、屋根に使う巨大な梁を遠い山の斜面から京都まで引いて来るのには、信徒の女性達の髪をより合わせた太い綱が用いられた。今も寺に保存されているその綱の一本を見ると、長さが三百六十フィート以上、直径がほぼ三十インチもある。

 (中略)日本人がこれから入っていかねばならない、さらに広く厳しい世界での試練に備えて日本人の大きな助けとなるであろう。

(「日本の心」小泉八雲・講談社学術文庫)

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『仏法と世法』 講述 和田稠

大谷専修学院機関紙 より

『仏法と世法』 講述 和田稠 聞思舎発行
一月一日、和田稠先生が浄土に還られました。この本は滋賀県の井川さんが聴聞の場を開き、井川さんから「仏法と世法」という課題をいただいてお話されたのが、小冊子になったものです。何度も耳にした言葉に活字となって再び逢えることを本当にうれしく思います。それはきっと和田先生その人を崇拝、恋慕しているのではなく、先生の願い、その願いを本という言葉にしてくれた先達、願いが私のところまで届いた、もっと言えば「今」届いた、そのことに涙がこぼれます。本の最後の短い「あとがき」には以下の言葉があります。
命がけでお話をして下さる先生の姿に頭が下がると共に、何ひとつ聞けていない私が問われ続けている毎日です。
これからも宜しかったら皆様と共に静かに命の叫びを聞いてまいりたく思います。

わけのわからないことを話しているオジジでした。ところが縁あってわからないながらも何度も聴いているうちに、念仏の教えが美しくおいしいことをはじめて知らされました。いつ聴いてもこころ動かされる言葉であることに出遇いました。和田先生の言葉は「浄土真宗です」「親鸞です」というブランド無くしてうなずいていけることです。
(宗教心とは)特別な心ではないんです。人間であるならば、ちょっと真面目に考えた ら誰でもが願わずにおれない確かな生き方への欲求、それを宗教心という。
「私は無宗教だ」という人がいます。それはたぶん、今流行っているあらゆる宗教を信じないと言うんでしょう。いわゆる既成宗教というものを全部信じない。それほどその人は痛切に本当の生き方を要求しておるのです。(本誌より)

得度して、大谷専修学院で生活し、教師資格を持ち、すっかりわかった気になっていた私に、「身」と「土」と「心」について、そして「くに」という問題、何か大きなもので殴られるような感動をおぼえながらオジジの言葉をいただきました。その尊いオジジの言葉が耳の底に留まって私をつき動かしているのです。
聞思舎 0740-25-2520

欲しい方はコメント下さい。一冊500円、送料別。

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自習

北畠道龍という方が気になっています。

http://homepage1.nifty.com/boddo/ajia/all/eye5.html

http://www2.next.ne.jp/~yokosin1/nisimakisakuya.htm

http://okwave.jp/qa198147.html

http://homepage3.nifty.com/~fwix7026/books/sen/kyoryude.htm

http://page.freett.com/sukechika/ishin/sonnoh/set05-3.html


知ることと、
身を据えて聞いていくこととなんだか違う気がしている。漠然と。

books


「天鼓なりやまず、北畠道龍の生涯」 神坂次郎 著 中公文庫
http://page6.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f59997481


「焼刃のにおい」 津本陽/著 光文社

「幕末巨龍伝」 著者:津本陽。新潮社。

 『豪僧北畠道龍』 北畠道龍顕彰会 大空社 

http://rokugou.cside.com/sub269hantihankai.htm


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故事成語 人生


◆積善の家に余慶あり
◆百聞は一見に如かず
◆恒産なくして恒心なし
◆所変われば品変わる
◆人生意気に感ず
◆可愛い子には旅をさせよ
◆一所懸命
◆任重くして道遠し
◆果報は寝て待て
◆月下氷人
◆朋あり遠方より来る
◆糟糠の妻
◆益友
◆兄弟牆に鬩ぐも外其の務を禦ぐ
◆刎頚の交わり
◆子孫の為に美田を買わず 
◆虎渓三笑
◆虚室、白を生ず 
◆桃李成蹊
◆立志  
◆韋編三度絶つ
◆登竜門 
◆石に漱ぎ流れに枕す
◆塞翁が馬 
◆成竹を胸中に得
◆人間五十年夢幻のごとくなり
◆堆敲
◆六十にして、六十化す
◆鶏鳴狗盗
◆長生久視、不老長寿
◆草枕
◆上春を尋ねて、春を見ず

故事百選 http://www.iec.co.jp/kojijyukugo/index.php


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故事成語 人間関係

◆君子は豹変す
◆和して同ぜず 
◆情は人の為ならず
◆逆鱗に触れる 
◆三十六計逃げるに如かず
◆立ち寄らば大木の陰 
◆水清ければ魚棲まず
◆窮鼠猫を噛む 
◆過ぎたるは、なお及ばざるが如し
◆狼子野心 
◆人の振り見て我が振り直せ
◆病は口より入り、禍は口より出ず 
◆己の欲せざる所は、人に施す勿れ
◆貌をもって人を取る 
◆過ちては則ち改むるに憚ること勿れ
◆君子の交わりは淡きこと水のごとし 
◆成らぬ堪忍、するが堪忍
◆知らぬが仏 
◆惻隠の心は仁の端なり
◆急がば回れ 
◆愛、屋烏に及ぶ
◆人と屏風は直ぐには立たず 
◆去る者は日々に疎し
◆余地 
◆袖振り合うも他生の縁
◆以心伝心 
◆温故知新
◆出る杭は打たれる 
◆花は半開を看、酒は微酔に飲む
◆中庸は徳の至れるものなり 
◆和光同塵
◆上善は水のごとし 

故事百選 http://www.iec.co.jp/kojijyukugo/index.php より


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『永訣の朝』 宮沢賢治

けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨(いんさん)な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜(じゆんさい)のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしは まがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから   
(あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを…
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系(にさうけい)をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
   (Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて こんどはこたに
   わりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ         

『永訣の朝』  宮沢賢治

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真宗大谷派「不戦決議」

真宗大谷派「不戦決議」

 私たちは過去において、大日本帝国の名の下に、世界の人々、とりわけアジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらし、佛法の名を借りて、将来ある青年たちを死地に赴かしめ、言いしれぬ苦難を強いたことを、深く懺悔するものであります。

 この懺悔の思念を旨として、私たちは、人間のいのちを軽んじ、他を抹殺して愧じることのない、すべての戦闘行為を否定し、さらに賜った信心の智慧をもって、宗門が犯した罪責を検証し、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまないことを決意して、ここに「不戦の誓い」を表明するものであります。

 さらに私たちは、かつて安穏なる世を願い、四海同胞への慈しみを説いたために、非国民とされ、宗門からさえ見捨てられた人々に対し、心からなる許しを乞うとともに、今日世界各地において不戦平和への願いに促されて、その実現に身を捧げておられるあらゆる心ある人々に、深甚の敬意を表するものであります。

 私たちは、民族・言語・文化・宗教の相違を越えて、戦争を許さない、豊かで平和な国際社会の建設にむけて、すべての人々と歩みをともにすることを誓うものであります。

 右、決意いたします。

 一九九五年六月一三日

                真宗大谷派宗議会議員一同

 一九九五年六月一五日

                真宗大谷派参議会議員一同

2006年春の法要リーフレット記載「全戦没者追弔法会の開催にあたって(宗務総長 熊谷宗惠) 」

http://www.tomo-net.or.jp/pdf/Apr-2006/10-11.pdf

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仏説観無量寿経 原文 お経

(89)仏説観無量寿経(数字は真宗大谷派真宗聖典の頁です。)

宋元嘉中*良耶舎訳

如是我聞。一時仏、在王舎城、耆闍崛山中、与大比丘衆 千二百五十人倶。菩薩三万二千。文殊師利法王子。而為上首。爾時王舎大城、有一太子。名阿闍世。随順調達 悪友之教、収執父王 頻婆娑羅、幽閉置於七重室内。制諸群臣、一不得往。国大夫人、名韋提希。恭敬大王、澡浴清浄、以酥蜜和*、用塗其身、諸瓔珞中、盛蒲桃漿、密以上王、爾時大王、食*飲漿、求水漱口。漱口畢已、合掌恭敬、向耆闍崛山、(90)遥礼世尊、而作是言。大目*連、是吾親友、願興慈悲、授我八戒。時目*連、如鷹隼飛、疾至王所。日日如是、授王八戒。世尊亦遣、尊者富楼那、為王説法。如是時間、経三七日、王食*蜜、得聞法故、顔色和悦。
時阿闍世、問守門者。父王今者、猶存在耶。時守門人、白言大王、国大夫人、身塗*蜜、瓔珞盛漿、持用上王。沙門目連 及富楼那、従空而来、為王説法。不可禁制。時阿闍世、聞此語已、怒其母曰。我母是賊、与賊為伴。沙門悪人。幻惑呪術、令此悪王 多日不死。即執利剣、欲害其母。時有一臣、名曰月光。聡明多智。及与耆婆、為王作礼、白言大王、臣聞毘陀論経説、劫初已来、(91)有諸悪王、貪国位故、殺害其父、一万八千。未曾聞有 無道害母。王今為此殺逆之事、汚刹利種。臣不忍聞。是旃陀羅。不宜住此。時二大臣、説此語竟、以手按剣、却行而退。時阿闍世、驚怖惶懼、告耆婆言。汝不為我耶。耆婆白言大王、慎莫害母。王聞此語、懺悔求救。即便捨剣、止不害母。勅語内官、閉置深宮、不令復出。時韋提希、被幽閉已、愁憂憔悴。遥向耆闍崛山、為仏作礼、而作是言。如来世尊、在昔之時、恒遣阿難、来慰問我。我今愁憂。世尊威重、無由得見。願遣目連、尊者阿難、与我相見。作是語已、(92)悲泣雨涙、遥向仏礼。未挙頭頃、爾時世尊、在耆闍崛山、知韋提希 心之所念、即勅大目*蓮 及以阿難、従空而来。仏従耆闍崛山没 於王宮出。時韋提希、礼已挙頭、見世尊釈迦無釈迦牟尼仏。身紫金色、坐百宝蓮華。目連侍左、阿難在右。釈梵護世 諸天在空中、普雨天華、持用供養。時韋提希、見仏世尊、自絶瓔珞、挙身投地。号泣向仏 白言世尊、我宿何罪、生此悪子。世尊復有何等因縁、与提婆達多 共為眷属。唯願世尊、為我広説 無憂悩処。我当往生。不楽閻浮提 濁悪世也。此濁悪処、地獄餓鬼畜生、盈満多不善聚。願我未来、(93)不聞悪声、不見悪人。今向世尊、五体投地、求哀懺悔。唯願仏日、教我観於清浄業処。爾時世尊、放眉間光。其光金色、*照十方 無量世界、還住仏頂、化為金台、如須弥山。十方諸仏 浄妙国土、皆於中現。或有国土、七宝合成。復有国土、純是蓮華。復有国土、如自在天宮。復有国土、如玻*鏡。十方国土、皆於中現。有如是等 無量諸仏国土。厳顕可観。令韋提希見。時韋提希、白仏言世尊、是諸仏土、雖復清浄 皆有光明、我今楽生極楽世界 阿弥陀仏所。唯願世尊、教我思惟、教我正受。爾時世尊、即便微笑、有五色光、従仏口出。一一光照 頻婆娑羅頂。爾時大王、(94)雖在幽閉、心眼無障、遥見世尊、頭面作礼。自然増進、成阿那含。爾時世尊、告韋提希。汝今知不、阿弥陀仏、去此不遠。汝当繋念、諦観彼国浄業成者。我今為汝、広説衆譬。亦令未来 一切凡夫 欲修浄業者、得生西方 極楽国土。欲生彼国者、当修三福。一者孝養父母、奉事師長、慈心不殺、修十善業。二者受持三帰、具足衆戒、不犯威儀。三者発菩提心、深信因果、読誦大乗、勧進行者。如此三事、名為浄業。仏告韋提希。汝今知不。此三種業、過去未来現在 三世諸仏、浄業正因。仏告阿難 及韋提希。諦聴諦聴、善思念之。(95)如来今者、為未来世 一切衆生 為煩悩賊之所害者、説清浄業。善哉韋提希、快問此事。阿難汝当受持、広為多衆、宣説仏語。如来今者、教韋提希 及未来世 一切衆生、観於西方極楽世界。以仏力故、当得見彼 清浄国土、如執明鏡 自見面像、見彼国土、極妙楽事。心歓喜故、応時即得無生法忍。仏告韋提希。汝是凡夫、心想羸劣、未得天眼、不能遠観。諸仏如来、有異方便、令汝得見。時韋提希、白仏言世尊、如我今者、以仏力故、見彼国土。若仏滅後 諸衆生等、濁悪不善、五苦所逼。云何当見 阿弥陀仏 極楽世界。仏告韋提希。汝及衆生、応当専心、(96)繋念一処、想於西方。云何作想。凡作想者、一切衆生、自非生盲、有目之徒、皆見日没。当起想念、正坐西向、諦観於日、令心堅住、専想不移。見日欲没 状如懸鼓。既見日已、閉目開目、皆令明了。是為日想、名曰初観。
次作水想。見水澄清、亦令明了、無分散意。既見水已、当起氷想。見氷映徹、作瑠璃想。此想成已、見瑠璃地 内外映徹。下有金剛 七宝金幢、*瑠璃地。其幢八方、八楞具足。一一方面、百宝所成。一一宝珠、有千光明。一一光明、八万四千色。映瑠璃地、如億千日。不可具見。瑠璃地上、以黄金縄、雑廁間錯、以七宝界、分斉分明。一一宝中、(97)有五百色光。其光如華、又似星月 懸処虚空。成光明台。楼閣千万、百宝合成。於台両辺、各有百億華幢。無量楽器 以為荘厳。八種清風、従光明出。鼓此楽器、演説苦空、無常無我之音。是為水想、名第二観。
此想成時、一一観之、極令了了。閉目開目、不令散失。唯除睡時、恒憶此事。如此想者、名為粗見 極楽国地。若得三昧、見彼国地、了了分明。不可具説。是為地想、名第三観。仏告阿難。汝持仏語、為未来世 一切大衆 欲脱苦者、説是観地法。若観是地者、除八十億劫 生死之罪。捨身他世 必生浄国。心得無疑。作是観者、名為正観、若他観者、名為邪観。
(98)仏告阿難 及韋提希。地想成已、次観宝樹。観宝樹者、一一観之、作七重行樹想。一一樹高、八千由旬。其諸宝樹、七宝華葉、無不具足。一一華葉、作異宝色。瑠璃色中、出金色光、玻*色中、出紅色光、碼碯色中、出**光、**色中、出緑真珠光。珊瑚琥珀 一切衆宝 以為映飾。妙真珠網、弥覆樹上。一一樹上、有七重網。一一網間、有五百億 妙華宮殿、如梵王宮。諸天童子、自然在中。一一童子、五百億 釈迦毘楞伽摩尼宝 以為瓔珞。其摩尼光、照百由旬、猶如和合 百億日月。不可具名。衆宝間錯、色中上者、此諸宝樹、行行相当、葉葉相次。於衆葉間、生諸妙華。華上自然、有七宝果。一一樹葉、(99)縦広正等、二十五由旬。其葉千色、有百種画、如天瓔珞。有衆妙華、作閻浮檀金色。如旋火輪、婉転葉間。涌生諸果、如帝釈*。有大光明、化成幢旛。無量宝蓋。是宝蓋中、映現三千大千世界 一切仏事。十方仏国、亦於中現。見此樹已、亦当次第 一一観之。観見樹茎 枝葉華果、皆令分明。是為樹想、名第四観。
次当想水。想水者、極楽国土、有八池水。一一池水、七宝所成。其宝柔軟、従如意珠王生。分為十四支。一一支、作七宝色、黄金為渠。渠下皆以 雑色金剛、以為底沙。一一水中、有六十億 七宝蓮華。一一蓮華、団円正等、十二由旬。其摩尼水、流注華間、尋樹上下。(100)其声微妙、演説苦空 無常無我 諸波羅蜜。復有讃歎 諸仏相好者。如意珠王 涌出金色 微妙光明。其光化為 百宝色鳥。和鳴哀雅、常讃念仏念法念僧。是為八功徳水想、名第五観。
衆宝国土 一一界上、有五百億宝楼閣。其楼閣中、有無量諸天、作天伎楽。又有楽器。懸処虚空。如天宝幢、不鼓自鳴。此衆音中、皆説念仏念法念比丘僧。此想成已、名為粗見 極楽世界 宝樹宝地宝池。是為総観想、名第録観。若見此者、除無量億劫 極重悪業。命終之後、必生彼国。作是観者、名為正観、若他観者、名為邪観。
仏告阿難 及韋提希、諦聴諦聴、善思念之。仏当為汝 分別解説 除苦悩法(101)。汝等憶持、広為大衆、分別解説。説是語時、無量寿仏、住立空中。観世音 大勢至、是二大士、侍立左右。光明熾盛、不可具見。百千閻浮檀金色、不得為比。時韋提希、見無量寿仏已、接足作礼、白仏言世尊、我今因仏力故、得見無量寿仏 及二菩薩。未来衆生、当云何観 無量寿仏 及二菩薩。仏告韋提希。欲観彼仏者、当起想念。於七宝地上、作蓮華想。令其蓮華 一一葉作百宝色。有八万四千脈、猶如天画。脈有八万四千光。了了分明、皆令得見。華葉小者、縦広二百五十由旬。如是蓮華、有八万四千葉。一一葉間、各有百億摩尼珠王、以為映飾。一一摩尼、放千光明。其光如蓋。七宝合成、(102)*覆地上。釈迦毘楞伽宝 以為其台。此蓮華台、八万金剛 甄叔迦宝 梵摩尼宝 妙真珠網、以為交飾。於其台上、自然而有 四柱宝幢。一一宝飾、妙百千万億須弥山。幢上宝幔、妙夜摩天宮。有五百億 微妙宝珠、以為映飾。一一宝珠、有八万四千光。一一光、作八万四千 異種金色。一一金色、*其宝土。処処変化、各作異相。或為金剛台、或作真珠網、或作雑華雲。於十方面、随意変現、施作仏事。是為華座想、名第七観。仏告阿難。妙此妙華、是本法蔵比丘 願力所成。若欲念彼仏者、当先作此華座想。作此想時、不得雑観。皆応一一観之。一一葉、一一珠、一一光、一一台、一一幢、皆令分明 如於鏡中(103) 自見面像。此想成者、滅除五万劫 生死之罪。必定当生 極楽世界。策是観者、名為正観、若他観者、名為邪観。
仏告阿難 及韋提希。見此事已、次当想仏。所以者何。諸仏如来、是法界身。入一切衆生心想中。是故汝等、心想仏時、是心即是 三十二相 八十随形好。是心作仏。是心是仏。諸仏正*知海、従心想生。是故応当 一心繋念、諦観彼仏 多陀阿伽度 阿羅訶 三藐三仏陀。想彼仏者、先当想像。閉目開目、見一宝像 如閻浮檀金色。坐彼華上。見像坐已、心眼得開。了了分明、見極楽国 七宝荘厳、宝地宝池 宝樹行列、諸天宝幔 弥覆其上、衆宝羅網(104) 満虚空中。見如此事、極令明了。如観掌中。見此事已、復当更作 一大蓮華 在仏左辺。如前蓮華、等無有異。復作一大蓮華、在仏右辺。想一観世音菩薩像 坐左華座。亦放金光、如前無異。想一大勢至菩薩像 坐右華座。此想成時、仏菩薩像、皆放光明。其光金色、照諸宝樹。一一樹下、復有三蓮華。諸蓮華上、各有一仏 二菩薩像、*満彼国。此想成時、行者当聞 水流光明 及諸宝樹 鳧雁鴛鴦、皆説妙法。出定入定、恒聞妙法。行者所聞、出定之時 憶持不捨、令与修多羅合。若不合者、名為妄想。若有合者、名為麁想 見極楽世界。是為像想、名第八観。作是観者、除無量億劫 生死之罪。於現身中、(105)得念仏三昧。
仏告阿難 及韋提希。此想成已、次当更観 無量寿仏 身相光明。阿難当知。無量寿仏身、如百千万億 夜摩天閻浮檀金色。仏身高、六十万億 那由他 恒河沙由旬。眉間白亳、右旋婉転、如五須弥山。仏眼如四大海水、青白分明。身諸毛孔、演出光明。如須弥山。彼仏円光、如百億 三千大千世界。於円光中、有百万億那由他 恒河沙化仏。一一化仏、亦有衆多 無数化菩薩。以為侍者、無量寿仏、有八万四千相。一一相、各有八万四千随形好。一一好、復有八万四千光明。一一光明、*照十方世界。念仏衆生、摂取不捨。其光明相好 及与化仏、不可具説。但当憶想(106) 令心眼見。見此事者、即見十方 一切諸仏。以見諸仏、故名念仏三昧。作是観者、名観一切仏身。以観仏身故、亦見仏心、仏心者大慈悲是。以無縁慈、摂諸衆生。作此観者、捨身他世 生諸仏前、得無生忍。是故智者、応当繋心 諦観無量寿仏。観無量寿仏者、従一相好入。但観眉間白亳、極令明了。見眉間白亳者、八万四千相好、自然当現。見無量寿仏者、即見十方 無量諸仏。得見無量諸仏故、諸仏現前授記。是為*観 一切色身想、名第九観。作此観者、名為正観。若他観者、名為邪観。仏告阿難 及韋提希。見無量寿仏、了了分明已、次復当観 観世音菩薩。此菩薩身長、八十万億那由他由旬。(107)身紫金色。頂有肉髻。項有円光。面各百千由旬。其円光中、有五百化仏。如釈迦牟尼仏。一一化仏、有五百化菩薩 無量諸天、以為侍者。挙身光中、五道衆生 一切色相、皆於中現。頂上毘楞伽摩尼宝 以為天冠。其天冠中、有一立化仏。高二十五由旬。観世音菩薩 面如閻浮檀金色。眉間毫相、備七宝色。流出八万四千種光明。一一光明、有無量無数 百千化仏 一一化仏 無数化菩薩、以為侍者。変現自在、満十方世界。譬如紅蓮華色。有八十億光明、以為瓔珞。其瓔珞中、普現一切 諸荘厳事。手掌作五百億 雑蓮華色。手十指端、一一指端、有八万四千画。猶如印文。一一画、有八万四千色。一一色、(108)有八万四千光。其光柔軟、普照一切。以此宝手、接引衆生。挙足時、足下有千輻輪相。自然化成 五百億光明台。下足時、有金剛摩尼華。布散一切、莫不弥満。其余身相、衆好具足、如仏無異。唯頂上肉髻 及無見頂相、不及世尊。是為観 観世音菩薩 真実色身想。名第十観。仏告阿難。若有欲観 観世音菩薩者、当作是観。作是観者、不遇諸禍。浄除業障。除無数劫 生死之罪。如此菩薩、但聞其名 獲無量福。何況諦観。若有欲観 観世音菩薩者、先観頂上肉髻、次観天冠。其余衆相、亦次第観之、亦令明了、如観掌中。作是観者、名為正観。若他観者、名以邪観。
(109) 次復応観、大勢至菩薩。此菩薩身量大小、亦如観世音。円光面各 百二十五由旬。照二百五十由旬。挙身光明、照十方国。作紫金色。有縁衆生、皆悉得見。但見此菩薩 一毛孔光、即見十方 無量諸仏 浄妙光明。是故号此菩薩、名無辺光。以智恵光、普照一切、令離三塗、得無上力。是故号此菩薩、名大勢至。此菩薩天冠、有五百宝華。一一宝華、有五百宝台。一一台中、十方諸仏 浄妙国土、広長之相、皆於中現。頂上肉髻、如鉢頭摩華。於肉髻上、有一宝*。盛諸光明、普現仏事。余諸身相、如観世音、等無有異。此菩薩行時、十方世界、一切震動。当地動処、有五百億宝華。一一宝華、荘厳高顕、(110)如極楽世界。此菩薩坐時、七宝国土、一時動揺。從下方金光仏刹、乃至上方 光明王仏刹、於其中間、無量塵数。分身無量寿仏 分身観世音 大勢至、皆悉雲集 極楽国土。側塞空中、坐蓮華座。演説妙法、度苦衆生。作此観者、名為正観。若他観者、名為邪観。見大勢至菩薩、是為観大勢至 色身想、名第十一観。観此菩薩者、除無数劫 阿僧祇 生死之罪。作是観者、不処胞胎。常遊諸仏 浄妙国土。此観成已、名為具足観 観世音大勢至。
見此事時、当起自心、生於西方 極楽世界、於蓮華中、結跏趺座、作蓮華合想、作蓮華開想。蓮華開時、有五百色光。来照身想。見仏菩薩 眼目開想 見仏菩薩(111)満虚空中。水鳥樹林 及与諸仏 所出音声、皆演妙法。与十二部経合、出定之時、憶持不失。見此事已、名見無量寿仏 極楽世界。是為普観想、名第十二観。無量寿仏、化身無数。与観世音 大勢至、常來至此 行人之所。
仏告阿難 及韋提希。若欲至心、生西方者、先当観於 一丈六像 在地水上。如先所説、無量寿仏 身量無辺、非是凡夫 心力所及。然彼如来 宿願力故、有憶想者、必得成就。但想仏像、得無量福。何況観仏 具足身相。阿弥陀仏、神通如意、於十方国、変現自在。或現大身、満虚空中、或現小身 丈六八尺。所現之形、皆真金色。円光化仏 及宝蓮華、如上所説。観世音菩薩 及大勢至、(112)於一切処身同。衆生但観首相、知是観世音、知是大勢至。此二菩薩、助阿弥陀仏、普化一切。是為雑想観、名第十三観。
 仏告阿難 及韋提希。上品上生者、若有衆生、願生彼国者、発三種心、即便往生。何等為三。一者至誠心、二者深心、三者回向発願心。具三心者、必生彼国。復有三種衆生、当得往生。何等為三。一者慈心不殺、具諸戒行。二者読誦大乗 方等経典。三者修業六念。回向発願、願生彼国。具此功徳、一日乃至七日、即得往生。生彼国時、此人精進 勇猛故、阿弥陀如来、与観世音 大勢至 無数化仏 百千比丘 声聞大衆 無数諸天 七宝宮殿、観世音菩薩、(113)執金剛台、与大勢至菩薩 至行者前。阿弥陀仏、放大光明、照行者身。与諸菩薩、授手迎接。観世音大勢至 無数菩薩、讃歎行者、勧進其心。行者見已、歓喜踊躍。自見其身 乗金剛台、随従仏後、如弾指頃 往生彼国。生彼国已、見仏色身 衆相具足。見諸菩薩 色相具足。光明宝林、演説妙法。聞已即悟 無生法忍。経須臾間歴事諸仏、*十方界、於諸仏前 次第授記。還到本国、得無量百千陀羅尼門。是名上品上生者。
上品中生者、不必受持読誦方等経典、善解義趣、於第一義 心不驚動。深信因果、不謗大乗。以為功徳、回向願求 生極楽国。行此行者、命欲終時、阿弥陀仏、(114)与観世音 大勢至 無量大衆 眷属囲繞、持紫金台、至行者前。讃言法子、汝行大乗、解第一義。是故我今、來迎接汝。与千化仏、一時授手。行者自見、坐紫金台。合掌叉手、讃歎諸仏。如一念頃、即生彼国 七宝池中。此紫金台大宝華、経宿則開。行者身作、紫磨金色。足下亦有 七宝蓮華。仏及菩薩、倶時放光明、照行者身。目即開明。因前宿習、普聞衆声、純説甚深 第一義諦。即下金台、礼仏合掌、讃歎世尊。経於七日、応時即於 阿耨多羅三藐三菩提、得不退転。応時即能 飛行*至十方、歴事諸仏。於諸仏所、修諸三昧。経一小劫、得無生忍、現前授記。是名上品中生者。(115)上品下生者、亦信因果、不謗大乗。但発無上道心。以此功徳、回向願求 生極楽国。行者命欲終時、阿弥陀仏 及観世音 大勢至、与諸眷属、持金蓮華、化作五百化仏、來迎此人。五百化仏、一時授手、讃言法子、汝今清浄、発無上道心。我來迎汝。見此事時、即自見身、坐金蓮華。坐已華合。随世尊後、即得往生 七宝池中。一日一夜、蓮華乃開。七日之中、乃得見仏。雖見仏身、於衆相好、心不明了。於三七日後、乃了了見。聞衆音声、皆演妙法。遊歴十方、供養諸仏。於諸仏前、聞甚深法。経三小劫、得百法明門、住歓喜地。是名上品下生者。是名上輩生想、名第十四観。
(116)仏告阿難 及韋提希、中品上生者、若有衆生、受持五戒、持八戒斎、修行諸戒、不造五逆、無衆過患。以此善根、回向願求 生於西方、極楽世界。臨命終時、阿弥陀仏、与諸比丘 眷属囲繞、放金色光、至其人所。演説苦空無常無我、讃歎出家 得離衆苦。行者見已、心大歓喜。自見己身、坐蓮華台。長跪合掌、為仏作礼。未挙頭頃、即得往生 極楽世界。蓮華尋開。当華敷時、聞衆音声、讃歎四諦。応時即得阿羅漢道。三明六通、具八解脱。是名中品上生者。
中品中生者、若有衆生、若一日一夜、受持八戒斎、若一日一夜、持沙弥戒、若一日一夜、持具足戒、威儀無欠。以此功徳(117)、回向願求 生極楽国。戒香熏修、如此行者、命欲終時、見阿弥陀仏、与諸眷属 放金色光、持七宝蓮華、至行者前。行者自聞、空中有声 讃言善男子、如汝善人。随順三世 諸仏教故、我来迎汝。行者自見、坐蓮華上。蓮華即合。生於西方 極楽世界、在宝池中。経於七日、蓮華乃敷。華既敷已、開目合掌、讃歎世尊。聞法歓喜、得須陀*。経半劫已、成阿羅漢。是名中品中生者。
中品下生者、若有善男子善女人、孝養父母、行世仁慈。此人命欲終時、遇善知識、為其広説 阿弥陀仏 国土楽事、亦説法蔵比丘 四十八願。聞此事已、尋即命終。譬如壮士 屈伸臂頃、即生西方(118) 極楽世界。生経七日、遇観世音 及大勢至、聞法歓喜。経一小劫、成阿羅漢。是名中品下生者。是名中輩生想、名第十五観。
仏告阿難 及韋提希。下品上生者、或有衆生、作衆悪業。雖不誹謗 方等経典、如此愚人、多造衆悪、無有懺愧。命欲終時、遇善知識、為讃大乗 十二部経 首題名字。以聞如是 諸経名故、除却千劫 極重悪業。智者復教、合掌叉手、称南無阿弥陀仏。称仏名故、除五十億劫 生死之罪。爾時彼仏、即遣化仏 化観世音 化大勢至、至行者前、讃言善男子、汝称仏名故、諸罪消滅。我来迎汝。作是語已、行者即見 化仏光明、*満其室。見已歓喜、(119)即便命終。乗宝蓮華、随化仏後、生宝池中。経七七日、蓮華乃敷。当華敷時、大悲観世音菩薩 及大勢至、放大光明、住其人前、為説甚深 十二部経。聞已信解、発無上道心。経十小劫、具百法明門、得入初地。是名下品上生者。得聞仏名法名 及聞僧名。聞三宝名、即得往生。
仏告阿難 及韋提希。下品中生者、或有衆生、毀犯五戒八戒 及具足戒。如此罪人、以悪業故、応堕地獄。命欲終時、地獄衆火、一時倶至。遇善知識、以大慈悲、為説阿弥陀仏 十方威徳、広説彼仏 光明神力、亦讃戒定恵 解脱解脱知見(120)。此人聞已、除八十億劫 生死之罪。地獄猛火、化為清涼風。吹諸天華。華上皆有 化仏菩薩、迎接此人。如一念頃、即得往生。七宝池中、蓮華之内、経於六劫。蓮華乃敷。当華敷時、観世音大勢至、以梵音声、安慰彼人。為説大乗 甚深経典。聞此法已、応時即発無上道心。是名下品中生者。仏告阿難 及韋提希。下品下生者、或有衆生、作不善業 五逆十悪。具諸不善 如此愚人、以悪業故 応堕悪道。経歴多劫、受苦無窮。如此愚人、臨命終時、遇善知識、種種安慰、為説妙法、教令念仏。此人苦逼、不遑念仏。善友告言。汝若不能念者、応称無量寿仏。如是至心、令声不絶、具足十念(121)、称南無阿弥陀仏。称仏名故、於念念中、除八十億劫 生死之罪。命終之時、見金蓮華。猶如日輪、住其人前。如一念頃、即得往生 極楽世界。於蓮華中、満十二大劫、蓮華方開。観世音大勢至、以大悲音声、為其広説 諸法実相 除滅罪法。聞已歓喜。応時即発菩提之心。是名下品下生者。是名下輩生想、名第十六観。
説是語時、韋提希、与五百侍女、聞仏所説、応時即見 極楽世界 広長之相。得見仏身 及二菩薩、心生歓喜。歎未曾有。廓然大悟、得無生忍。五百侍女、発阿耨多羅三藐三菩提心、願生彼国。世尊悉記 皆当往生。生彼国已、得諸仏現前三昧。無量諸天、発無上道心。(122)爾時阿難、即従座起、前白仏言世尊、当何名此経。此法之要、当云何受持。仏告阿難。此経名観極楽国土 無量寿仏 観世音菩薩 大勢至菩薩。亦名浄除業障 生諸仏前。汝当受持。無令忘失。行此三昧者、現身得見 無量寿仏 及二大士。若善男子善女人、但聞仏名 二菩薩名、除無量劫 生死之罪。何況憶念。若念仏者、当知此人 是人中分陀利華。観世音菩薩 大勢至菩薩、為其勝友。当坐道場 生諸仏家。仏告阿難。汝好持是語。持是語者、即是持無量寿仏名。仏説此語時、尊者目*連 阿難及韋提希等、聞仏所説、皆大歓喜。
爾時世尊、足歩虚空、還耆闍崛山。爾時阿難(123)、広為大衆、説如上事。無量諸天 及龍夜叉、聞仏所説、皆大歓喜、礼仏而退。
仏説観無量寿経(124)

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仏説観無量寿経(書き下し)

*089 仏説観無量寿経(数字は真宗大谷派真宗聖典の頁です。)
宋の元嘉中に 良耶舎訳す
[序文]
かくのごとき、我聞きたまえき。一時、仏、王舎城耆闍崛山の中にましまして、大比丘衆千二百五十人と倶なりき。菩薩三万二千ありき。文珠師利法王子をして上首とす。
その時に王舎大城に一の太子あり、阿闍世と名づけき。調達悪友の数に随順して、父の王頻婆娑羅を収執し、幽閉して七重の室の中に置く。もろもろの群臣を制して、一も往くことを得しめず。国の大夫人あり、韋提希と名づく。大王を恭敬して、澡浴清浄にして、酥蜜をもって に和して、もってその身に塗り、もろもろの瓔珞の中に蒲桃の漿を盛れて、蜜にもって王に上む。その時に大王、麩を食し漿を飲みて、水を求めて口を漱ぐ。口を漱ぐことすでに已りて、合掌恭敬して、耆闍崛山に向かいて、はるかに*090世尊を礼して、この言を作さく、「大目・連、これ吾が親友なり。願わくは、慈悲を興して、我に八戒を授けよ」と。時に目・連、鷹隼の飛ぶがごとくして、疾く王の所に至る。日日に、かくのごとくして王に八戒を授く。世尊、また尊者富楼那を遣わして、王のために法を説かしむ。かくのごときの時の間、三七日を経るに、王 蜜を食し、法を聞くことを得るがゆえに、顔色和悦なり。
時に阿闍世、守門の者に問わまく、「父の王、今になお存在せりや」と。時に守門の人、白して言さく、「大王、国の大夫人、身に 蜜を塗り、瓔珞に漿を盛れて、もって王に上む。沙門目連および富楼那、空より来りて、王のために法を説かしむ。禁制すべからず」と。時に阿闍世、この語を聞き已りて、その母を怒りて曰わまく、「我が母はこれ賊なり、賊と伴たり。沙門は悪人なり。幻惑の呪術をもって、この悪王をして多日、死せざらしむ。」すなわち利剣を執りて、その母を害せんとす。時に一の臣あり、名をば月光と曰う。聡明にして多智なり。および耆婆と、王のために、礼を作して白して言さく、「大王、臣聞く、『毘陀*091論経』に説かく、劫初よりこのかた、もろもろの悪王ありて国位を貪るがゆえに、その父を殺害すること一万八千なり。未だむかしにも聞かず、無道に母を害することあるをば。王いまのこの殺逆の事をなさば、刹利種を汚してん。臣聞くに忍びず。これ旃陀羅なり。宜しく此に住すべからず。」時に二の大臣、この語を説き竟りて、手をもって剣を按えて、却行して退く。時に阿闍世、驚怖し惶懼して、耆婆に告げて言わく、「汝、我がためにせざらんや」と。耆婆、白して言さく、「大王、慎みて母を害することなかれ」と。王この語を聞きて、懺悔して救けんことを求む。すなわち剣を捨てて、止りて母を害せず。内官に勅語し、深宮に閉置して、また出ださしめず。
時に韋提希、幽閉せられ已りて、愁憂憔悴す。はるかに耆闍崛山に向かいて、仏の為に礼を作して、この言を作さく、「如来世尊、在昔の昔、恒に阿難を遣わして来らしめて、我を慰問したまいき。我いま愁憂す。世尊は威重にして、見たてまつること得るに由なし。願わくは目連と尊者阿難を遣わして、我がために相見せしめ
*092
たまうべし。」この語を作し已りて、悲泣雨涙して、はるかに仏に向かいて礼したてまつる。未だ頭を挙げざる頃に、その時に世尊、耆闍崛山にましまして、韋提希の心の所念を知ろしめして、すなわち大目・連および阿難に勅して、空より来らしめたまう。仏、耆闍崛山より、王宮に没して出でたまう。時に韋提希、礼し已りて頭を挙げて、世尊釈迦牟尼仏を見たてまつる。身は紫金色にして、百宝の蓮華に坐したまえり。目連は左に侍り、阿難は右にあり。釈梵護世の諸天、虚空の中にありて普く天華を雨りて、もって供養したてまつる。時に韋提希、仏世尊を見たてまつりて、自ら瓔珞を絶ち、身を挙げて地に投ぐ。号泣して仏に向かいて白して言さく、「世尊、宿何の罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また何等の因縁ましましてか、提婆達多と共に眷属たる。
唯、願わくは世尊、我がために広く憂悩なき処を説きたまえ。我当に往生すべし。閻浮提・濁悪世をば楽わず。この濁悪処は地獄・餓鬼・畜生盈満して、不善の聚多し。願わくは我、未来に*093悪声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かいて、五体を地に投じて、求哀し懺悔す。唯、願わくは仏日、我に清浄の業処を観ぜしむることを教えたまえ」と。その時に世尊、眉間の光を放ちたまう。その光金色なり、遍く十方無量の世界を照らして、還りて仏の頂に住して、化して金台に為りぬ。須弥山のごとし。十方諸仏の浄妙の国土、みな中において現ず。あるいは国土あり、七宝合成せり。また国土あり、もっぱらこれ蓮華なり。また国土あり、自在天宮のごとし。また国土あり、玻 鏡のごとし。十方の国土、みな中において現ず。かくのごときらの無量の諸仏の国土あり。厳顕にして観つべし。韋提希をして見せしめたまう。時に韋提希、仏に白して言さく、「世尊、このもろもろの仏土、また清浄にしてみな光明ありといえども、我いま極楽世界の阿弥陀仏の所に生まれんと楽う。唯、願わくは世尊、我に思惟を教えたまえ、我に正受を教えたまえ。」

その時に世尊、すなわち微笑したまうに、五色の光ありて仏の口より出ず。一一の光、頻婆娑羅の頂を照らしたまう。その時*094大王、幽閉にありといえども、心眼障なくして、はるかに世尊を見たてまつりて、頭面に礼を作す。自然に増進して阿那含と成りにき。
その時に世尊、韋提希に告げたまわく、「汝いま知れりやいなや、阿弥陀仏、此を去りたまうこと遠からず。汝当に繋念して、あきらかにかの国の浄業成じたまえる者を観ずべし。我いま汝がために、広くもろもろの譬を説かん。また、未来世の一切の凡夫の浄業を修せんと欲わん者をして、西方極楽国土に生ずることを得しめん。かの国に生まれんと欲わん者は、当に三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心ありて殺せず、十善業を修す。二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯せず。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進ず。かくのごときの三事を名づけて浄業とす。」仏、韋提希に告げたまわく、「汝いま知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「諦かに聴き、諦かに*095聴け。善くこれを思念せよ。如来いま、未来世の一切衆生の煩悩の賊のために害せらるる者のために、清浄の業を説かん。善きかな、韋提希、快くこの事を問えり。阿難、汝当に受持して、広く多衆のために仏語を宣説すべし。如来いま、韋提希および未来世の一切衆生をして、西方極楽世界を観ぜしめんことを教えん。仏力をもってのゆえに、当にかの清浄の国土を見ること、明鏡を執りて自ら面像を見るがごとく、かの国土の極妙の楽事を見ることを得べし。心の歓喜するがゆえに、時にすなわち無生法忍を得べし。」仏、韋提希に告げたまわく、「汝はこれ凡夫なり。心想羸劣にして未だ天眼を得ず、遠く観ることあたわず。諸仏如来は異の方便ましまして、汝をして見ることを得しめたまう。」時に韋提希、仏に白して言さく、「世尊、我がごときは、いま仏力をもってのゆえにかの国土を見つ。もし仏滅の後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかにしてか当に阿弥陀仏の極楽世界を見るべき」と。

仏、韋提希に告げたまわく、「汝および衆生、当に心を専らにし、*096念を一処に繋けて、西方を想うべし。いかんが想を作す。おおよそ想を作すというは、一切衆生、生盲にあらずよりは、有目の徒、みな日没を見よ。当に想念を起こして、正坐西向して、あきらかに日を観じて、心をして堅住ならしめて、専想して移らざれ。日の没らんと欲て、状、鼓を懸けたるがごとくなるを見るべし。すでに日を見ること已りて、目を閉じ目を開くに、みな明了ならしめよ。これを「日想」とす、名づけて「初めの観」と曰う。
次に水想を作せ。水の澄清なるを見て、また明了ならしめて、分散の意なかれ。すでに水を見已りなば、当に氷想を起こすべし。氷の英徹せるを見て、瑠璃の想を作せ。この想成じ已りて、瑠璃地の内外映徹せるを見ん。下に金剛七宝の金幢ありて、瑠璃地を げたり。その幢、八方にして八楞具足せり。一一の方面は百宝の所成なり。一一の宝珠に千の光明あり。一一の光明、八万四千色なり。瑠璃地に映ずること億千の日のごとし。具に見るべからず。瑠璃地の上に、黄金の縄をもって雑廁間錯し、七宝をもって界いて、分斉分明なり。一一の宝の中に五百色の光あり。その*097光、華のごとし、また星月の虚空に懸処せるに似たり、光明台と成る。楼閣千万にして、百宝合成す。台の両辺においておのおの百億の華幢あり、無量の楽器をもって荘厳とす。八種の清風、光明より出ず。この楽器を鼓するに、苦・空・無常・無我の音を演説す。これを「水想」とす、「第二の観」と名づく。
この想成ずる時、一一にこれを観じて、極めて了了ならしめよ。閉目開目に散失せしめざれ。唯、睡時を除きて、恒にこの事を憶せよ。かくのごとく想う者を、名づけて粗極楽国地を見るとす。もし三昧を得つれば、かの国地を見ること了了分明なり、具に説くべからず。これを「地想」とす、「第三の観」と名づく。仏、阿難に告げたまわく、「汝仏語を持ちて、未来世の一切大衆の、苦を脱れんと欲わん者のために、この観地の法を説け。もしこの地を観ずる者は、八十億劫の生死の罪を除かん。身を捨てて他世に必ず浄国に生ずべし。心に疑いなきことを得よ。この観を作すをば、名づけて正観とす。もし他観するをば名づけて邪観とす。」
*098仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「地想成じ已りなば、次に宝樹を観ぜよ。宝樹を観ぜば、一一にこれを観じて七重行樹の想を作せ。一一の樹の高さ、八千由旬ならん。そのもろもろの宝樹、七宝の華葉、具足せざることなし。一一の華葉、異宝の色を作す。瑠璃の色の中より金色の光を出だし、玻 の色の中より紅色の光を出だし、碼碯の色の中より の光を出だし、 の色の中より緑真珠の光を出だす。珊瑚・琥珀、一切の衆宝をもって映飾とす。妙真珠網、樹の上に弥覆せり。一一の樹の上に七重の網あり。一一の網の間に、五百億の妙華の宮殿あり、梵王宮のごとし。諸天の童子、自然に中にあり。一一の童子、五百億の釈迦毘楞伽摩尼宝をもって瓔珞とす。その摩尼の光、百由旬を照らす、猶し百億の日月を和合せるがごとし。具に名づくべからず。衆宝間錯して、色の中に上れたる者なり。このもろもろの宝樹、行行相当たり、葉葉相次し。もろもろの葉の間において、もろもろの妙華を生ず、華の上に自然に七宝の果あり。一一の樹葉、縦広正等にして二十五由旬なり。その葉千色にして百種の画あり、
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天の瓔珞のごとし。もろもろの妙華あり、閻浮檀金色を作す、旋火輪のごとし。葉の間に婉転す。もろもろの果を涌生す、帝釈の のごとし。大光明あり、化して幢幡と成る。無量の宝蓋あり。この宝蓋の中に、三千大千世界の一切の仏事を映現す。十方の仏国、また中において現ず。この樹を見已りて、また当に次第に一一にこれを観ずべし。樹茎・枝葉・華果を観見して、みな分明ならしめよ。これを「樹想」とす、「第四の観」と名づく。
次に当に水を想うべし。水を想わば、極楽国土に八つの池水あり。一一の池水、七宝の所成なり。その宝柔軟なり、如意珠王より生ず。分れて十四支と為る。一一の支、七宝の色を作せり、黄金を渠とす。渠の下に、みな雑色の金剛をもって、もって底の沙とす。一一の水の中に、六十億の七宝の蓮華あり。一一の蓮華、団円正等にして十二由旬なり。その摩尼水、華の間に流注して、樹を尋りて上下す。その声微妙にして、苦・空・無常・無我・諸
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波羅蜜を演説す。また諸仏の相好を讃歎する者あり。如意珠王より金色微妙の光明を湧出す。その光、化して百宝色の鳥と為る。和鳴哀雅にして、常に念仏・念法・念僧を讃ず。これを「八功徳水の想」とす、「第五の観」と名づく。
衆宝国土の一一の界上に、五百億の宝楼閣あり。その楼閣の中に、無量の諸天ありて天の伎楽を作す。また楽器あり。虚空に懸処す。天の宝幢のごとし、鼓せざるに自ずから鳴る。この衆音の中にみな念仏・念法・念比丘僧を説く。この想成じ已るを、名づけて粗極楽世界の宝樹・宝地・宝池を見るとす。これを「総観想」とす、「第六の観」と名づく。もしこれを見る者は、無量億劫の極重の悪業を除く。命終の後に必ずかの国に生ず。この観を作すをば名づけて正観とす、もし他観するをば名づけて邪観とす。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「あきらかに聴き、あきらかに聴け。善くこれを思念せよ。仏、当に汝がために、苦悩を
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除く法を分別し解説したまうべし。汝等、憶持して、広く大衆のために分別し解説すべし。」この語を説きたまう時、無量寿仏、空中に住立せり。観世音・大勢至、この二の大士、左右に侍立せり。光明熾盛なり、具に見るべからず。百千の閻浮檀金色も比とすることを得じ。時に韋提希、無量寿仏を見たてまつり已りて、接足作礼して、仏に白して言さく、「世尊、我いま仏力に因るがゆえに、無量寿仏および二菩薩を見たてまつることを得つ。未来の衆生、当にいかにしてか無量寿仏および二菩薩を見たてまつるべき。」仏、韋提希に告げたまわく、かの仏を観んと欲わば、当に想念を起こすべし。七宝の地に上において、蓮華の想を作せ。その蓮華の一一の葉をして、百宝の色を作さしめよ。八万四千の脈あり、猶し天の画のごとし。脈に八万四千の光あり。了了分明にみな見ることを得しめよ。華葉の小さきは、縦広二百五十由旬なり。かくのごときの蓮華に八万四千の葉あり。一一の葉の間に、おのおの百億の摩尼珠王ありて、もって映飾とす。一一の摩尼、千の光明を放つ。その光、蓋のごとし。七宝合成して、遍く
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地上に覆えり。釈迦毘楞伽宝をもってその台とす。この蓮華台は、八万の金剛・甄叔迦宝・梵摩尼宝・妙真珠網をもって交飾とす。その台の上において、自然として四柱の宝幢あり。一一の宝幢、百千万億の須弥山のごとし。幢上の宝幔は夜摩天宮のごとし。五百億の微妙の宝珠ありて、もって映飾とす。一一の宝珠に八万四千の光あり。一一の光、八万四千の異種の金色を作す。一一の金色、その宝土に遍す。処処に変化しておのおの異相を作す。あるいは金剛台と為り、あるいは真珠網と作り、あるいは雑華雲と作る。十方面において、意に随いて変現して、仏事を施作す。これを「華座の想」とす、「第七の観」と名づく。」仏、阿難に告げたまわく、「かくのごときの妙華は、これ本、法蔵比丘の願力の所成なり。もしかの仏を念ぜんと欲わば、当に先ずこの華座の想を作すべし。この想を作さん時、雑観することを得ざれ。みな一一にこれを観ずべし。一一の葉、一一の珠、一一の光、一一の台、一一の幢、みな分明ならしめて、鏡の中において自ら面像を見るがごとくにせよ。この想成ずれば、五万劫の生死の罪を滅除す。
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必定して当に極楽世界に生ずべし。この観を作すをば名づけて正観とす、もし他観するをば名づけて邪観とす。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「この事を見已りて、次に当に仏を想うべし。所以はいかん。諸仏如来はこれ法界の身なり。一切衆生の心想の中に入りたまえり。このゆえに汝等心に仏を想う時、この心すなわちこれ三十二相・八十随形好なり。この心、作仏す。この心これ仏なり。諸仏正遍知海は心想より生ず。このゆえに応当に一心に繋念して、あきらかにかの仏・多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三仏陀を観ずべし。かの仏を想わば、先ず当に像を想うべし。閉目開目に、一つの宝像の閻浮檀金色のごとくなるを見よ。かの華上に坐せり。像の坐せるを見已りて心眼開くることを得。了了分明に、極楽国の七宝荘厳の宝地・宝池・宝樹行列し、諸天の宝幔その上に弥覆し、衆宝羅網、虚空の中に満てるを見よ。かくのごときの事を見ること、極めて明了ならし
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めてん。掌の中を見るがごとくせよ。このことを見已りなば、また当に更に一つの大蓮華を作して仏の左辺に在け。前の蓮華のごとくして、等しくして異あることなかれ。また一つの大蓮華を作して仏の右辺に在け。一つの観世音菩薩の像、左の華座に坐せりと想え。また金光を放つこと、前のごとくして異なることなし。一つの大勢至菩薩の像、右の華座に坐せりと想うべし。この想成ずる時、仏菩薩の像、みな光明を放つ。その光金色にして、もろもろの宝樹を照らす。一一の樹下にまた三つの蓮華あり。もろもろの蓮華の上に、おのおの一仏・二菩薩の像ましまして、かの国に遍満す。この想成ずる時、行者当に水流・光明およびもろもろの宝樹・鳧雁・鴛鴦のみな妙法を説くを聞くべし。出定・入定に恒に妙法を聞かん。行者の所聞、出定の時憶持して捨てざれ、修多羅と合せしめよ。もし合せざるをば名づけて妄想とす。もし合することあらんをば、名づけて麁想に極楽世界を見るとす。これを「像想」とす、「第八の観」と名づく。この観を作せば、無量億劫の生死の罪を除く。現身の中において念仏三昧を得。」
*105仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「この想成じ已りなば、次に当に更に無量寿仏の身相光明を観ずべし。阿難、当に知るべし。無量寿仏の身は百千万億の夜摩天閻浮檀金色のごとし。仏身の高さ、六十万億那由他恒河沙由旬なり。眉間の白毫は、右に旋りて婉転し、五須弥山のごとし。仏眼は四大海水のごとし、清白分明なり。身のもろもろの毛孔より光明を演出す。須弥山のごとし。かの仏の円光は百億の三千大千世界のごとし。円光の中において、百万億那由他恒河沙の化仏まします。一一の化仏にまた衆多無数の化菩薩まします。もって侍者たり。無量寿仏に八万四千の相まします。一一の相に、おのおの八万四千の随形好あり。一一の好にまた八万四千の光明あり。一一の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。その光明・相好および化仏、具に説くべからず。但、当に憶想して、心眼をして見せしむべし。この事を見れば、すなわち十方一切の諸仏を見たてまつる。諸仏を見たてまつるをもってのゆえに「念仏三昧」と名
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づく。この観を作すをば、一切の仏身を観ずと名づく。仏身を観ずるをもってのゆえに、また仏心を見る。仏心というは大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂す。この観を作せば、身を捨てて他世に諸仏の前に生じて、無生忍を得。このゆえに智者、応当に心を繋けて、あきらかに無量寿仏を観ずべし。無量寿仏を観ぜば、一つの相好より入れ。但、眉間の白毫を観じて、極めて明了ならしめよ。眉間の白毫を見れば、八万四千の相好、自然に当に現ずべし。無量寿仏を見たてまつるは、すなわち十方無量の諸仏を見たてまつるなり。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆえに、諸仏現前に授記す。これを「遍観一切色身想」とす、「第九の観」と名づく。この観を作すをば名づけて正観とす。もし他観するをば名づけて邪観とす。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「無量寿仏を見たてまつること了了分明なること已りて、次にまた当に観世音菩薩を観ずべし。この菩薩の長八十万億那由他由旬なり。身紫金色なり。*107頂に肉髻あり。項に円光あり。面おのおの百千由旬なり。その円光の中に五百億の化仏まします。釈迦牟尼仏のごとし。一一の化仏に五百の化菩薩・無量の諸天ありて、もって侍者たり。挙身の光の中に、五道の衆生の一切の色相、みな中において現ず。頂上に毘楞伽摩尼宝をもって天冠とす。その天冠の中に一つの立化仏まします。高さ二十五由旬なり。観世音菩薩の面、閻浮檀金の色のごとし。眉間の毫相、七宝の色を備えたり。八万四千種の光明を流出す。一一の光明に、無量無数百千の化仏まします。一一の化仏、無数の化菩薩、もって侍者たり。変現自在にして十方世界に満てり。たとえば紅蓮華色のごとし。八十億の光明ありて、もって瓔珞たり。その瓔珞の中に、普く一切のもろもろの荘厳の事を現ず。手掌に五百億の雑蓮華の色を作す。手の十指の端、一一の指の端に、八万四千の画あり、猶し印文のごとし。一一の画に八万四千の色あり。一一の色に八万四千の光あり。その光柔軟にして普く一切を照らす。この宝手をもって衆生を接引す。足を挙ぐる時、足の下に千輻輪の相あり。自然に化して、五百億の光明
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台と成る。足を下す時、金剛摩尼華あり。一切に布散して弥満せざることなし。その余の身相、衆好具足せること、仏のごとくして異なし。唯頂上の肉髻および無見頂の相、世尊に及ばず。これを「観世音菩薩の真実色身想を観ず」とす、「第十の観」と名づく。」仏、阿難に告げたまわく、「もし観世音菩薩を観ぜんと欲することあらば、当にこの観を作すべし。この観を作す者は、諸禍に遇わず。業障を浄除す。無数劫の生死の罪を除く。かくのごときの菩薩、但その名を聞くに無量の福を獲。いかにいわんや、あきらかに観ぜんをや。もし観世音菩薩を観ぜんと欲することあらば、先ず頂上の肉髻を観じ、次に天冠を観ぜよ。その余の衆相、また次第にこれを観じて、また明了ならしめて、掌の中を観るがごとくせよ。この観を作すをば名づけて正観とす。もし他観するをば名づけて邪観とす。」
*109次にまた、当に大勢至菩薩を観ぜよ。この菩薩の身量・大小、また観世音のごとし。円光の面おのおの百二十五由旬なり。二百五十由旬を照らす。挙身の光明、十方国を照らす。紫金色を作す。有縁の衆生、みなことごとく見ることを得。但この菩薩の一毛孔の光を見れば、すなわち十方無量諸仏の浄妙の光明を見る。このゆえにこの菩薩を号して無辺光と名づく。智慧の光をもって普く一切を照らして、三塗を離れしむるに無上力を得たり。このゆえにこの菩薩を号して、大勢至と名づく。この菩薩の天冠に五百の宝華あり。一一の宝華に五百の宝台あり。一一の台の中に、十方諸仏の浄妙の国土、広長の相、みな中において現ず。頂上の肉髻、鉢頭摩華のごとし。肉髻の上において一つの宝 あり。もろもろの光明を盛れて、普く仏事を現ず。余のもろもろの身相、観世音のごとし。等しくして異あることなし。この菩薩行ずる時、十方世界一切震動す。地動の処に当たりて五百億の宝華あり。一一の宝華、荘厳高く顕れて極楽世界のごとし。この菩薩坐する時、七宝の国土一時に動揺す。下方の金光仏刹より乃至上方の光明王
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仏の刹まで、その中間において無量塵数なり。分身の無量寿仏、分身の観世音・大勢至、みなことごとく極楽国土に雲集す。空中に側塞して、蓮華座に坐す。妙法を演説して、苦の衆生を度す。この観を作すをば名づけて正観とす。もし他観するをば名づけて邪観とす。大勢至菩薩を見る、これを「大勢至の色身想を観ず」とす、「第十一の観」と名づく。この菩薩を観ずれば、無数劫阿僧祇の生死の罪を除く。この観を作せば胞胎に処せず。常に諸仏の浄妙の国土に遊ぶ。この観成じ已るを、名づけて「具足して観世音・大勢至を観ず」とす。
この事を見る時、当に自心を起こして、西方極楽世界に生じて、蓮華の中において結跏趺座し、蓮華の合する想いを作し、蓮華の開くる想いを作すべし。蓮華開くる時、五百色の光あり。来りて身を照らす。眼目開くと想え。仏菩薩の虚空の中に満てるを見る*111と想え。水鳥・樹林および諸仏の所出の音声、みな妙法を演ぶ。十二部経と合して、出定の時憶持して失せず。この事を見已るを「無量寿仏の極楽世界を見る」と名づく。これを「普観想」とす、「第十二の観」と名づく。無量寿仏、化身無数なり。観世音・大勢至と、常にこの行人の所に来至す。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「もし心を至して西方に生ぜんと欲せん者は、先ず当に一つの丈六の像を観じて池水の上に在くべし。先の所説のごときは、無量寿仏、身量無辺にして、これ凡夫の心力の及ぶところにあらず。然るを、かの如来の宿願力のゆえに、憶想することあれば、必ず成就することを得。但し仏像を想うに、無量の福を得。何にいわんや仏の具足の身相を観ぜんをや。阿弥陀仏、神通如意にして、十方の国において変現自在なり。あるいは大身を現じて虚空の中に満ち、あるいは小身を現じて丈六八尺なり。所現の形、みな真金色なり。円光・化仏および宝蓮華、上の所説のごとし。観世音菩薩および大勢至、一
*112
切処において身同じ。衆生但、首相を観て、これ観世音と知り、これ大勢至と知る。この二菩薩、阿弥陀仏を助けて普く一切を化す。これを「雑想観」とす、「第十三の観」と名づく。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「「上品上生」というは、もし衆生ありて、かの国に生まれんと願ずれば、三種の心を発してすなわち往生す。何等をか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具すれば、必ずかの国に生ず。また三種の衆生ありて、当に往生を得べし。何等をか三つとする。一つには慈心にして殺せず、もろもろの戒行を具す。二つには大乗方等経典を読誦す。三つには六念を修行す。回向発願してかの国に生ぜんと願ず。この功徳を具すること、一日乃至七日して、すなわち往生を得。かの国に生ずる時、この人精進勇猛なるがゆえに、阿弥陀如来、観世音・大勢至・無数の化仏・百千の比丘・声聞大衆・無数の諸天・七宝の宮殿と、観世音菩薩、金剛台を執りて、大勢至菩薩と行者の前に至る。阿弥陀仏、大光
*113
明を放ちて行者の身を照らしたまう。もろもろの菩薩と手を授けて迎接す。観世音・大勢至、無数の菩薩と、行者を讃歎して、その心を勧進す。行者見已りて歓喜踊躍す。自らその身を見れば金剛台に乗じて、仏後に随従して、弾指の頃のごとくにかの国に往生す。かの国に生じ已りて、仏の色身の衆相具足せるを見たてまつる。もろもろの菩薩の色相具足せるを見る。光明の宝林、妙法を演説す。聞き已りてすなわち無生法忍を悟る。須臾の間を経て諸仏に歴事し、十方界に遍じて、諸仏の前において次第に授記せらる。本国に還到して、無量百千の陀羅尼門を得。これを「上品上生の者」と名づく。
「上品中生」というは、必ずしも方等経典を受持読誦せざれども、善く義趣を解り第一義において心驚動せず。深く因果を信じて大乗を謗せず。この功徳をもって回向して極楽国に生まれんと願求す。この行を行ずれば、命終わらんと欲る時、阿弥陀仏、
*114
観世音・大勢至・無量の大衆と眷属に囲繞せられて、紫金台を持して、行者の前に至る。讃めて言わく、「法子、汝大乗を行じ第一義を解る。このゆえに我いま来りて汝を迎接す」と。千の化仏と一時に手を授く。行者、自ら見れば紫金台に坐す。合掌叉手して諸仏を讃歎す。一念の間のごとくに、すなわちかの国の七宝池の中に生ず。この紫金台は大宝華のごとし、宿を経てすなわち開く。行者の身、紫磨金色に作れり。足の下にまた七宝の蓮華あり。仏および菩薩、倶時に光明を放ちて、行者の身を照らす。目すなわち開けて明らかなり。前の宿習に因りて、普く衆声を聞くに、もっぱら甚深の第一義諦を説く。すなわち金台より下りて、仏を礼し合掌して、世尊を讃歎す。七日を経て、時に応じてすなわち阿耨多羅三藐三菩提において不退転を得。時に応じてすなわち能く飛行して、遍く十方に至り、諸仏に歴事す。諸仏の所においてもろもろの三昧を修す。一小劫を経て無生忍を得、現前に授記せらる。これを「上品中生の者」と名づく。
*115「上品下生」というは、また因果を信じ、大乗を謗せず。但無上道心を発す。この功徳をもって回向して極楽国に生まれんと願求す。行者命終わらんと欲る時に、阿弥陀仏および観世音・大勢至、もろもろの眷属と、金蓮華を持って、五百の化仏を化作して、この人を来迎す。五百の化仏、一時に手を授けて、讃めて言わく、「法子、汝いま清浄にして無上道心を発す。我来りて汝を迎う」と。この事を見る時、すなわち自ら身を見れば、金蓮華に坐す。坐し已れば華合す。世尊の後ろに随いて、すなわち七宝池の中に往生することを得。一日一夜に、蓮華すなわち開く。七日の中にすなわち仏を見たてまつることを得。仏身を見たてまつるといえども、もろもろの相好において心明了ならず。三七日の後において、すなわち了了に見たてまつる。もろもろの音声を聞くに、みな妙法を演ぶ。十方に遊歴して諸仏を供養す。諸仏の前において甚深の法を聞く。三小劫を経て、百法明門を得、歓喜地に住す。これを「上品下生の者」と名づく。これを「上輩生想」と名づく、「第十四の観」と名づく。」
*116仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「「中品上生」というは、もし衆生ありて、五戒を受持し、八斎戒を持ち、諸戒を修行し、五逆を造らず、もろもろの過患なし。この善根をもって回向して西方極楽世界に生まれんと願求す。命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの比丘と眷属に囲繞せられて、金色の光を放ちて、その人の所に至る。苦・空・無常・無我を演説し、出家の、衆苦を離るることを得ることを讃歎す。行者見已りて、心大きに歓喜す。自ら己身を見れば、蓮華台に坐す。長跪合掌して、仏の為に礼を作す。未だ頭を挙げざる頃に、すなわち極楽世界に往生することを得。蓮華すなわち敷くる時に当たりて、もろもろの音声を聞くに、四諦を讃歎す。時に応じてすなわち阿羅漢道を得。三明・六通あり、八解脱を具す。これを「中品上生の者」と名づく。
「中品中生」というは、もし衆生ありて、もしは一日一夜、八斎戒を受持し、もしは一日一夜、沙弥戒を持ち、もしは一日一夜、具足戒を持ちて、威儀欠くることなし。この功徳をもって回
*117
向して極楽国に生まれんと願求す。戒香薫修せる、かくのごときの行者、命終わらんと欲る時に、阿弥陀仏もろもろの眷属と金色の光を放ち、七宝の蓮華を持って、行者の前に至りたまうを見る。行者自ら聞けば、空中に声ありて讃めて言わく、「善男子、汝がごときは善人なり。三世諸仏の教えに随順するがゆえに、我来りて汝を迎う」と。行者自ら見れば蓮華の上に坐す。蓮華すなわち合す。西方極楽世界に生まれて、宝池の中にあり。七日を経て蓮華すなわち敷く。華すでに敷け已りて、目を開く。合掌して、世尊を讃歎す。聞法歓喜して須陀 を得。半劫を経已りて阿羅漢と成る。これを「中品中生の者」と名づく。
「中品下生」というは、もしは善男子・善女人ありて、父母に孝養し、世の仁慈を行ず。この人、命終わらんと欲る時に、善知識の、それがために広く阿弥陀仏の国土の楽事を説き、また法蔵比丘の四十八願を説くに遇わん。この事を聞き已りて、すなわち命終す。たとえば壮士の臂を屈伸する頃のごとくに、すなわち西方
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極楽世界に生ず。生じて七日を経て、観世音および大勢至に遇いて、聞法歓喜す。一小劫を経て阿羅漢と成る。これを「中品下生の者」と名づく。これを「中輩生想」と名づく、「第十五の観」と名づく。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「「下品上生」というは、あるいは衆生ありてもろもろの悪業を作れり。方等経典を誹謗せずといえども、かくのごときの愚人、多く衆悪を造りて慚愧あることなし。命終わらんと欲る時に、善知識の、ために大乗十二部経の首題の名字を讃むるに遇わん。かくのごときの諸経の名を聞くをもってのゆえに、千劫の極重の悪業を除却す。智者また教えて、合掌叉手して、南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、五十億劫の生死の罪を除く。その時にかの仏、すなわち化仏・化観世音・化大勢至を遣わして、行者の前に至りて、讃めて言わく、「善男子、汝仏名を称するがゆえに、諸罪消滅す。我来りて汝を迎う」と。この語を作し已りて、行者すなわち化仏の光明その室に遍満せるを見たてまつる。見已りて歓喜して、すな
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わち命終す。宝蓮華に乗じ、化仏の後に随いて、宝池の中に生ず。七七日を経て蓮華すなわち敷く。華敷くる時に当たりて、大悲観世音菩薩および大勢至、大光明を放ちて、その人の前に住して、ために甚深の十二部経を説く。聞き已りて信解して、無上道心を発す。十小劫を経て、百法明門を具し、初地に入ることを得。これを「下品上生の者」と名づく。仏名・法名を聞き、および僧名を聞くことを得。三宝の名を聞きて、すなわち往生を得。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「「下品中生」というは、あるいは衆生ありて、五戒・八戒および具足戒を毀犯す。かくのごときの愚人、僧祇物を偸み、現前僧物を盗み、不浄に説法す。慚愧あることなし。もろもろの悪業をもってして自ら荘厳す。かくのごときの罪人、悪業をもってのゆえに地獄に堕すべし。命終わらんと欲る時に、地獄の衆火、一時に倶に至る。善知識の、大慈悲をもって、ために阿弥陀仏の十力威徳を説き、広くかの仏の光明神力を説き、また戒・定・慧・解脱・解脱知見を讃ずるに
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遇わん。この人、聞き已りて八十億劫の生死の罪を除く。地獄の猛火、化して清涼の風と為る。もろもろの天華を吹く。華の上にみな化仏菩薩ましまして、この人を迎接す。一念の頃のごとくにすなわち往生を得。七宝池の中、蓮華の内にして、六劫を経。蓮華すなわち敷けん。華敷くる時に当たりて、観世音・大勢至、梵音声をもって、かの人を安慰す。ために大乗甚深の経典を説く。この法を聞き已りて、時に応じてすなわち無上道心を発す。これを「下品中生の者」と名づく。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「「下品下生」というは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作る。もろもろの不善を具せるかくのごときの愚人、悪業をもってのゆえに悪道に堕すべし。多劫を経歴して、苦を受くること窮まりなからん。かくのごときの愚人、命終の時に臨みて、善知識の、種種に安慰して、ために妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友告げて言わく、「汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし」と。かくのごとく心を*121至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。命終の時、金蓮華を見る。猶し日輪のごとくしてその人の前に住す。一念の頃のごとくに、すなわち極楽世界に往生することを得ん。蓮華の中において十二大劫を満てて、蓮華方に開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもって、それがために広く諸法実相・除滅罪の法を説く。聞き已りて歓喜す。時に応じてすなわち菩提の心を発す。これを「下品下生の者」と名づく。これを「下輩生想」と名づく、「第十六の観」と名づく。」
この語を説きたまう時に、韋提希、五百の侍女と、仏の所説を聞きて、時に応じてすなわち極楽世界の広長の相を見たてまつる。仏身および二菩薩を見たてまつることを得て、心に歓喜を生ず。未曾有なりと歎ず。廓然として大きに悟りて、無生忍を得。五百の侍女、阿耨多羅三藐三菩提心を発して、かの国に生ぜんと願ず。世尊ことごとく「みな当に往生すべし」と記す。かの国に生まれ已りて、諸仏現前三昧を得ん。無量の諸天、無上道心を発しき。

*122その時に阿難、すなわち座より起ちて、前みて仏に白して言さく、「世尊、当にいかんがこの経を名づくべき。この法の要を、当にいかんが受持すべき。」仏、阿難に告げたまわく、「この経を、『観極楽国土・無量寿仏・観世音菩薩・大勢至菩薩』と名づく。また『浄除業障生諸仏前』と名づく。汝当に受持すべし。忘失せしむることなかれ。この三昧を行ずる者は、現身に無量寿仏および二大士を見たてまつることを得。もし善男子・善女人、但、仏名・二菩薩名を聞くに無量劫の生死の罪を除く。いかにいわんや憶念せんをや。もし念仏する者は、当に知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友と為りたまう。当に道場に坐して、諸仏の家に生ずべし。」仏、阿難に告げたまわく、「汝好くこの語を持て。この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり。」仏この語を説きたまう時に、尊者目・連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きて、みな大きに歓喜す。
その時に世尊、足虚空を歩みて、耆闍崛山に還りたまいぬ。そ*123の時に阿難、広く大衆のために上のごときの事を説く。無量の諸天および龍・夜叉、仏の所説を聞きて、みな大きに歓喜して、仏を礼して退く。

仏説観無量寿経

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